漢字は元々は象形文字から変化してできたのですが、その後はそういった文字を組み合わせて意味の合った文字を新たに作られるようになりました。
そのような組み合わせ文字が現在の漢字の9割を占めているそうです。
この本は、そういった元の文字構成成分の意味から、組み合わせた文字をまとめて解説することで、体系的に漢字を覚えることができるというものです。
著者は専門の研究者ではないようですが、独自に漢字の体系をまとめているという、漢字博士を自称している方です。
たとえば、「兆」という文字は元々中国の殷の時代に漢字の元となる亀甲文字ができた際に、作られたものですが、亀の甲羅や獣の骨を焼いて吉凶を占った時に、できた割れ目のことを「兆」と表したのが始まりです。
そこから、何かの前触れとなるという意味ができ、「きざす・きざし」という意味となっていきました。
その「兆」と他の文字成分(部首)とが組み合わさってできた文字がいくつもありますが、それらには「兆」という文字が元々持っていた「左右に分かれる・ぱっと割れる」といった意味が残っているということです。
さらに、音読みもほとんどもものが「チョウ」となっています。
これらの文字群には、「挑・眺・跳・誂」他があり、眺は「視線を左右に分けてみる」、挑は「固いものを二つに分ける、そこから”こちらから仕掛ける・いどむ”」という意味になったそうです。
このような文字成分とそれからできた漢字が他にもいくつも解説されていますが、ちょっと意外な意味があったものを紹介しておきます。
それは、俊という文字のつくりの部分(現在は一つの漢字とはなっていない)です。
この意味は上部の「允」と下部の「スイ、形はそのまま」から成り、允は「和やかな姿で立つ人」を表し「スイ」は足を引きずる様子を示すとあります。
合わせて「立ちすくむ・尻込みをする」という意味になるようなのですが、そこから派生した組み合わせ漢字は少し様子が違います。
たとえば、俊は「すっと抜きん出た人」を表し、駿は「すらりと背の高く足の早い馬」となります。
あまり「立ちすくむ」とは通じないように思えますが、徐々に変化してきたのでしょうか。
「逡」は、確かに「逡巡」という言葉にも見られるように「尻込み」そのもののようです。
「欠」は小学校でも習う漢字であり、現在では「かける(えぐり取る・割れる)」という意味になっていますが、実は元々の意味は「口を開け、身体をくぼませてかがむ」というものだったそうです。
現在の意味の「欠」は元々は「缺」という字であったのですが、混用されるようになり欠と書くようになってしまいました。
欠席・欠員などの「欠」は本来は「缺」と書くべきものだったのです。
元の意味の「欠」を使った言葉は「欠神」(”あくび”の意味)が残っています。
人が口を開けてあくびをするという状態を示したもので、元の字義がびたりを当てはまります。
したがって、「欠」を成分として含む文字は元の意味と関連する意味を持っています。
たとえば、「吹、炊、歌、飲」などで、どれも人が口を開けた様子と関連があるそうです。
(炊は元々火吹き竹を吹くという意味から産まれた)
このように整然とした組み立てから生まれた漢字だったのですが、特に戦後の新字体への変更に際し、まったくその原義を無視した変更が加えられ、たとえば「犬」であるべきところを「大」というように点を取ってしまうということが行われたために、意味と文字形の関係が失われてしまったものが多くなってしまいました。
さらに、その点を付けるかどうかというのもバラバラとなり、それごとに覚えなければならないという状況になりました。
なかなか、分かりやすく漢字の成り立ちを説明されている本だったと思います。