爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「異常気象で読み解く現代史」田家康著

この方の本は以前に「気候で読み解く日本史」というものを読みましたが、専門の研究者ではないものの非常によくデータを集めて勉強されているということが分かる内容でした。

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その印象は今度のこの本でも同様で、ここでは20世紀以降の世界の異常気象と見られた事件を取り上げていますが、その分析は的確と感じます。

 

扱われているのは、アメリカで1930年代に起きた「ダストボウル」と呼ばれる非常に大規模な砂塵嵐、中国で1958年からの異常気象により起きた大飢饉、米ソの軍拡競争の中で急速に広がった「核の冬」という認識、1993年の夏に起きた日本の冷夏でのコメ騒動、そして地球温暖化論が出現してからIPCCが活躍するまで、という異常気象(というか、人災というか)です。

 

アメリカ中部の大平原は、かつては一面の草原であったところです。

ミシシッピ川の流域からロッキー山脈の東の山麓までの地域で、その東部の湿潤地帯と西部の乾燥地帯の間で平均降水量は年500mmから1000mmといったところですが、これは気圧配置の少しの差で変化が大きく、干魃と多雨を繰り返してきたところです。

しかし、1862年リンカーンが発布したホームステッド法(自営農地法)により、おびただしい数の農民がこの地域に入植し、ちょうどその頃に開発された鋼鉄製の鋤を用いて広大な畑に変えてしまいました。

それが大規模な環境破壊となり、それまでも何度も襲ってきた干ばつが再び1930年代に来襲すると、これまでにないような砂塵の嵐となってしまいました。

黒いブリザードとなり、首都ワシントンにまで砂を吹き付けました。

これを「大干ばつという異常気象による災害」と捉えがちですが、実際は一面の草地を掘り返して土壌をむき出しにしてしまった環境破壊によるものです。

アメリカ政府は仕方なしに土壌保全という方向に転換しますが、これも政府による規制を嫌うというアメリカの国情からなかなか進まなかったようです。

それでも、なんとか土壌保全を進めたのですが、実際には最も有効であったのは、オガララ帯水層という地下水を汲み上げて散水するということを始めたことでした。

今のところはまだその効果でダストボウルの再現は抑えられていますが、地下水の枯渇が心配されているところです。

 

1959年からの3年間、中国は全土が異常気象に見舞われ、農業生産が激減し大規模な食糧不足が発生して飢饉となりました。

その餓死者は推計しかありませんが、1500万人とも4600万人とも言われています。

少ない見積もりを見ても、これが20世紀の災難で最大のものであったことは間違いありません。

これは天災であったというのが中国政府の見解ですが、実際は天災3割、人災7割というように政策の失敗によるものであったようです。

ソ連ではスターリンが死去しフルシチョフが政権を取っていました。毛沢東スターリンを批判したフルシチョフを許せず、ソ連の援助から決別しようとします。

それが「大躍進政策」であり、まずは水利建設、そして粗鋼生産の飛躍的な増加、人民公社の設立ということを実施しました。

そして、農業ではソ連の農学者ウィリヤムスの土壌理論やルイセンコの農法を採用することとなります。

いずれも、西欧の科学的農業に対抗することを焦るばかりに、科学的にはまったく顧みられないようなものでした。

水利工事や各地域での無理な粗鋼生産には、農民の多くが駆り出されて農業を放棄してそれらの作業にあたりました。

これらの政策には不満を持つ人々も多かったのですが、それを口外すると反革命勢力と断定されて弾圧されるために、批判はできませんでした。

そして、1959年直前にはすでに農業生産力が落ちてきていたところに、数十年に一度という異常気象が襲い、農作物の収量が激減したのです。

それでも最初は中央政府は生産減を認めずに強制的に作物を移送するということをやったために、農村部の食糧は底をつき餓死者の増加を招きました。

 

「核の冬」とは、もしも核戦争が起きて多数の核爆発が起きた場合、直接的な熱破壊だけが被害をもたらすばかりでなく、無数の塵などが発生して大気中を覆い尽くすことで日射が遮られ農業が世界的に壊滅するという予測を言います。

これは今やほとんどの人が認めていることだと思いますが、それが論じ始められたのはつい最近と言っても良い頃でした。

かつては小説「渚にて」でも描写されたように、核爆発で破壊された地域以外には徐々に拡散する放射能が害を与えるというイメージでしたが、全世界的に気温が急降下するということであれば、核兵器の使用にさらにブレーキを掛けざるを得ません。

これは1982年にクルッツェン、パークス、そしてカール・セーガンらによって発表されたものでした。

彼らは様々な核戦争のシナリオを予測し、その場合の気象影響を算定しました。ひどい場合では核戦争開始の3週間後に気温が23℃低下するというもので、食料供給は完全に麻痺するだろうという推定がなされました。

アメリカ政府などからは、それに対する反論もなされましたが、結局は認めざるを得ずレーガンゴルバチョフの核軍縮に通じることとなりました。

さらに、1960年代の米ソなどの核実験が頻発した時には実際に気温降下の現象が存在したという研究も発表されたそうです。

 

私達の年代のものにとっては、1993年の冷夏とコメの大不作という事件はまだ記憶に新しいものです。

この本に取り上げられている他の事例と比べると、これは人災という側面はあまり無く、数十年に一度とも言える天災だったと言えます。

ただし、その後のコメの調達や流通と言う問題は十分に人災と言う面があったようです。

その年は稀に見る暖冬でしたが、それ以前の気象予測では寒冷予想がなされていました。

それが見事に外れたのですが、真の大予測失敗はその夏の冷夏でした。

暖冬のあと3月から冷え込みが続き、さらに4月には真冬並みの寒気が南下しました。

それでも気象庁の長期予測では春は温かい日が多く、夏は晴れて暑いという脳天気なものでした。

これには、当時の気象予報の手法が過去の気象からの統計的な類推しかなかったという限界がありました。

梅雨入りも早く、オホーツク海高気圧がこの時期になっても出現し優勢となりました。

また台風が夏前からいくつも来襲しました。そこで一時的に梅雨前線が北上した時に気象庁は梅雨明け宣言を出しますが、これは結局その後取り消されることとなります。

真夏になっても気温は上がらず、コメの収穫はほとんどないという地域も出ることになりました。

作況指数は全国で80,東北地方は青森の32を最低にのきなみ40程度となり、当時の年間国内需要の約1000万トンに対し、200万トンが不足するということになりました。

当時はまだ海外から主食用のコメを輸入するということが認められていなかったため、海外の主要生産国でも日本向けのコメなどは作っていなかったのですが、急遽余裕のある生産国から輸入をするということになりました。

しかし、日本人の好みに合う短粒米を作っているところはあまりなく、仕方なくタイから長粒米を輸入するということになりました。しかし、日本人の嗜好にはまったく合わず、相手方にも無理を言って売ってもらったにも関わらずタイ米だけは売れ残ると言った事態にもなりました。

そういった大騒動だったのですが、翌1994年には打って変わってコメの大豊作、日本人は懲りることもありませんでした。

 

二酸化炭素による温暖化論争というものは、かなり昔から始まっていました。

しかし、最初はトンデモ理論扱いで、気象学の学者からはほとんど無視というものでした。

彼らがその理論批判のために主張した議論は現在の二酸化炭素温暖化に対して懐疑派が出している議論とほぼ同じだそうです。

しかし、二酸化炭素濃度の上昇は徐々に起きていた一方、気温の上下は関係なく起きていました。

1950年代には気温が高めであったために、二酸化炭素温暖化説も力を増します。

ところが1960年代から世界的に気温が低下したために、世の中は皆寒冷化を心配するようになり、温暖化説などは忘れされれてしまいます。

そして、1970年代以降の温度上昇により、温暖化論は非常に力を増し現在の状態になるわけです。

IPCCもこのような状況で出現してきたわけです。

 

異常気象で読み解く現代史

異常気象で読み解く現代史

 

 1993年の冷夏は、ちょうど子供が小学生の時でした。夏の楽しみの学校のプールがほとんど使用不可だったことが印象的でした。

その直後から、コメが不作というニュースが駆け巡り大騒ぎだったことを覚えています。

もうちょっとマシな対応ができたのではという思いが残っていました。

それにしても、気候が異常になるのはよくあることのようですが、その被害を何倍、何十倍にもしてしまうのは社会や政治だということでしょう。