爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「桜が創った”日本” ソメイヨシノ起源への旅」佐藤俊樹著

桜の花が満開となり、一斉に散っていく光景というのは日本全国同じように見られると思っていますが、実はそれはソメイヨシノ全盛の現代だからこそであり、つい100年ほど前まではそうではありませんでした。

そして太平洋戦争に向かう国情の中で桜への意識が変えられた上に、戦後の開発ブームに同調してソメイヨシノの増殖が始まりました。

桜というものに対しての日本人の感覚というものが、どういうものか問い直す必要があるのかもしれません。

 

桜の種類は、自生種にヤマザクラ群、エドヒガン群、マメザクラ群、カンヒザクラ群の4系統があり、さらに栽培された園芸品種として300以上あるそうです。

これほど多くの種がある中で、現在普通に目にするのはほとんどがソメイヨシノだけになっており、少なくとも7割以上は占めているとか。

特に、関西以外の都市部に植えられている桜は9割以上がソメイヨシノということです。

そのためか、桜の咲いた光景と言えば花だけが枝いっぱいに咲き、どの花の色もほとんど同じであり、さらに散る時も一斉に散っていくというものを思い浮かべられます。

 

しかし、ソメイヨシノが生まれたのはわずか100年ちょっと前、(正確なことは分かっていないようです)江戸幕末から明治にかけての頃です。

それ以前の桜の咲いた風景というものは少し違っていたようです。

 

桜関係の本を見ると、「ソメイヨシノの流行る前はヤマザクラ」と書いて有ることが多いのですが、実はそれほど簡単な話ではありません。

ヤマザクラは主に西日本に自生しており、東日本にはごく一部の温かい地方だけにあるものの、東北や中部にはカスミザクラ、人里にエドヒガンと言った具合に各地で様々な種の桜があったようです。

江戸周辺には潮風に強いオオシマザクラが多かったとか。

一重か八重か、花色が薄いもの濃いもの、葉が出てから咲くか花が散ってから葉が出るか等々、色々な咲き方をしていました。

 

そのようなバラエティ豊かな桜の社会が、ソメイヨシノ出現以来急速に一色に塗り替えられてしまいました。

ソメイヨシノは良く知られているようにすべて一つのクローンです。

必ず接ぎ木や挿し木により増やされており他の種との交配はしていません。

 

ここで誤解があるのは、「ソメイヨシノには種ができない人工的なもの」と考える人が多いことです。

実は桜という植物は自家不和合性という性質を持ち、同じ木の雄しべと雌しべでは受粉できません。

ソメイヨシノは種を作れないのではなく、作った種はまったく違う種になってしまうので、栽培できないだけのことです。

 

ソメイヨシノが出現したのは明治初年のようですが、その後の普及はそれほど急速であったわけではないようです。

靖国神社や上野公園など、桜の名所と言われるところでもソメイヨシノは半分にもいかないほどで、意外に他種の桜が多いことが分かります。

 

しかし、急激に広がったのは実は戦後のことです。

高度成長の過程で多くの新しい街が作られましたが、そこに公園を作り木を植えるとなると一番植えやすいのがソメイヨシノであったようです。

ソメイヨシノは寿命が短いと言われていますが、それは成長が速くすぐに見頃を迎えるからでもあります。

それが、公園造成者たちにとっては都合のよいことでした。

さらに、他種の樹木や桜でも他の種の木はせっかく植えても根付かずに枯れるということも多いのですが、ソメイヨシノはそういった失敗も少なく安心して植えられたということがあるそうです。

 

そのような事実が知られるに連れ、「ソメイヨシノ嫌い」という人も増えてきて、そういった人たちの書く文章も広まっています。

一気に植えられたソメイヨシノも、その50年から70年と言われる寿命が迫ってきました。

この先の桜の光景はどうなるのでしょうか。

 

桜が創った「日本」―ソメイヨシノ 起源への旅 (岩波新書)

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