爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「朝鮮通信使 江戸日本の静信外交」仲尾宏著

つい先日、ユネスコの世界記憶遺産に登録されたことで話題となった朝鮮通信使ですが、その全体像を10年前に日朝の関係史が専門の著者が著していました。

 

江戸時代には国同士の対等な関係の外交というものは、朝鮮との間にのみ存在しました。

そしてそれは間隔は均等とは言えないながらも長く続いており、その意味ではとても「鎖国」などという状態では無かったとも言えます。

 

日朝間の関係は古代から続いていたのですが、豊臣秀吉朝鮮出兵、日本で言う「文禄慶長の役」朝鮮では「壬辰倭乱、丁酉倭乱」で最悪の関係となりました。

豊臣秀吉の死去により日本は撤兵はしたものの公式に戦争終結の交渉もされず、また3万とも5万とも言われる朝鮮人民の拉致した被虜人が日本に連れ帰られました。

 

古くから朝鮮との交易で利益を上げていた対馬の領主の宗氏はその状態では困窮することとなり、日朝の復交を画策することとなります。

また他の大名も和平交渉を求める動きがあり、加藤清正は独自に明軍捕虜の中国人を送り返すということもしています。

そのため、朝鮮側も日本の現状を探ろうとし、松雲大師という僧侶を送ることとなりました。1604年のことでした。

徳川家康もこの動きを利用し、国交正常化を成し遂げようとします。

松雲大師と直接会見し、自分は朝鮮出兵には関わっていないこと(ウソですが)を言明し、さらに朝鮮人被虜人の送還を実施することを約束し、実際に帰国の際に1000名以上を連れ帰らせます。

このような情勢の中、1607年には第1回の朝鮮通信使(この時は「回答兼刷還使」)を送り出すこととなります。

 

始めのうちは儀礼をめぐる食い違いや思惑などからぎこちないこともあったのですが、日本側の官民を挙げての丁重なもてなしもあり、友好的なものとなっていきます。

その使節団には多くの文化人も含まれており、日本側はその逗留中に面会を求めるものが多く、儒教についてや漢詩について、また医薬についてなど多くの文化的交流がなされることとなります。

また、接待にあたった各藩の武士や宿舎となった寺院の関係者などが使節団員にねだって書き残してもらった詩文や絵画などが全国各地に残っているということにもなりました。

 

朝鮮通信使は釜山を出発するとまず、対馬に立ち寄ります。そこから対馬藩の担当者とともに船でそのまま瀬戸内海を通り大坂に向かいました。

周防上関や明石などで各藩の接待を受けた後、大坂に到着、そこで船を乗り換えて淀川を遡上。

そこからは陸路で江戸に向かいました。

東海道の道中には河川が何箇所かあり、徳川幕府の方策で橋はかけられておらず、通常は肩車や蓮台で渡っていたのですが、通信使通行の場合は必ず舟を並べた仮橋を作ったそうです。

また、通信使の食事は日本側としては困惑したもののようで、肉食の習慣のない日本人は料理もできず、豚や牛を集めるだけは集めて、そのまま使節側に渡しそちらで料理してもらったとか。

 

朝鮮通信使に関わった中でももっともその功績がある人が、雨森芳洲でした。

近江の国の出ですが木下順庵に学び、その後対馬藩に仕えました。

通信使接待と江戸往復の護衛・相伴を担当したのですが、朝鮮語も習得しました。

朝鮮語を若者に教える教場を対馬に作り、後継者を育成するなど、その後の通信使運営にも尽力したそうです。

 

新井白石も通信使来日の際に対談しその知識や漢文の正確さで使節を驚かせたということですが、費用節減を図り使節接待の簡素化を目指したり、内心では朝鮮使節を軽んじたりと、あまり通信使のためになることはしなかったようです。

 

雨森芳洲の遺した「交隣提醒」という文書には「文化相対主義」ということが説かれています。

各国の文化はそのまま尊び交わるという、現代の「多文化共生」に当たる考え方と言えます。

また、その中で「誠信の交わり」という言葉も説いています。

外国との交渉では忘れてはならない心構えということでしょう。

 

朝鮮通信使―江戸日本の誠信外交 (岩波新書)

朝鮮通信使―江戸日本の誠信外交 (岩波新書)