2010年に当時の菅総理大臣が韓国に日本にある「朝鮮王朝儀軌」を引き渡すと突然のように発表したことは社会に驚きをもって迎えられました。
それがどういうものかという認識もほとんどの人が持っていなかったはずです。
実はそれは韓国国内でも同様の状況だったようです。
1866年にフランスが江華島から奪い去った儀軌がフランス国立図書館にあることが分かり、韓国でようやく返還を求める運動が起きたですが、それに伴って調査をしていて、日本にもそれが存在することがようやく知られるようになりました。
もともと、朝鮮王朝内の資料として作られたものであり公表もされていなかったので一般には知られているものではなかったようです。
「儀軌」とは、朝鮮王朝時代に王朝内でのさまざまな儀礼を豊富な絵を添えて記録してきたものです。
そういった儀礼にはめったに実施されないものもあり、その細かい知識が失われないように極彩色の絵でビジュアルに記録することで、次回の実施の参考にするというのが目的だったようです。
それが日本に渡り宮内庁に保管されていました。
そこには、日韓併合に伴い朝鮮王朝を廃止し、王族は日本の皇族に準じるものとして待遇したという状況が関わってきます。
朝鮮半島の民衆の反抗を抑えるために、旧朝鮮王朝の王族を優遇することで民衆をなだめようとする意図があり、日本の皇族扱いとすることはできないものの、貴族よりは少し上という、「王公族」という形で処遇します。
また、最後の皇太子・李垠には皇族から梨本宮方子を結婚させます。
さらに、最後の国王の高宗が亡くなった際は国葬を営むと礼遇したつもりだったのですが、高宗の国葬では日本式の葬儀を行なったためにかえって朝鮮の民衆の怨みがつのり、結局は大規模な反乱の三・一運動を引き起こしてしまいます。
これらの朝鮮式の儀式を知るためというのが「儀軌」を入手し日本に送った理由だったようです。
すでに朝鮮総督府が管理し整理していた儀軌を宮内庁に送ることで手続きは完了しました。
フランスが韓国新幹線建設にフランス国鉄TGVの技術導入を働きかけるためにフランス保有の朝鮮王朝儀軌の「長期貸与」を持ちかけたのに触発されたのか、日本も宮内庁保有の儀軌を韓国に引き渡すことを決めます。
スッタモンダがあったようですが、引き渡すこととなりました。
日韓関係だけでなく、世界各地に昔の帝国主義時代に持ち去られた文化財などの返還要求運動が起きており、大きな問題となっています。
日本には朝鮮半島から持ち去られた(ただし、売られたものも多数あるのが複雑)文化財が多数存在します。
しかし、問題となるのは1965年に日韓基本条約です。
ここでは、日本が韓国に経済協力資金を提供する一方、植民地支配の賠償などの請求権の問題、文化財返還の問題などもすべて「永久かつ最終的に解決」したということにされました。
日韓交渉は、財産および請求権問題、漁業権、在日韓国人の法的地位、など多岐に渡っていたのですが、このうち最重要視されたのが「請求権」もっとも等閑視されたのが「文化財問題」だったそうです。
当時、最貧国レベルの経済状態だった韓国にとってはまず経済面だったのは仕方のないことですが、そこで妥結を急いだためにこのような文化財問題が残ってしまいました。
最後の部分の、日韓条約締結に関する部分は、慰安婦や徴用補償問題と共通のことでした。
いくら「国際法上は解決」といってもこのままでは済まないだろうということでしょう。