今、普通に使っている言葉で、その起源は仏教語であるというものがかなりあるということは知ってはいました・。
しかし、その意味が本来の仏教でのものと相当変化して現在使われていると言うものが多いようです。
それを著述をしながらも臨済宗住職である著者が列挙し、それについて簡単な説明を加えるという体裁の本です。
88の言葉が取り上げられていますが、有名なもの、知っていたもののあり、また初めて聞いたものもありました。
初めて聞いたと言う言葉をいくつか紹介しておきます。
☆分別 (ふんべつ・”ぶんべつ”では別の意味になってしまう)
「分別ある大人」といった意味で使われるのが普通のようです。
しかし、仏教語としての本来の意味から言えばこれも使い方が変化してきたものです。
仏教では、「分別」というのは良い意味ではありません。
凡夫がしてしまう、間違った判断のことを「分別」と言います。
したがって、分別を乗り越えた「無分別」の状態が悟りに近いものとして求められています。
現代の社会で言われる「分別」「無分別」は逆の感触を持っているようです。
☆台無し
この「台」とは、本来は仏像が置かれる台座のことです。
通常は仏像本体と台座と一体のものとして扱われますが、火事に遭遇したりすると仏像のみを持ち出すということもあります。
この「台座なし」の仏像というものが、いかにも情けないものに見えるそうです。
おそらく、高さが低くなり視線が下がるせいだと思いますが、やはり仏像は少し見上げる角度で有難く見えるように作ってあるそうです。やはり台座なしは「台無し」ということです。
☆藪と野暮
藪医者の「藪」、野暮天の「野暮」ですが、これはもともと同じ起源であり、中国で田舎の占い師のことを「田野の巫師」略して「野巫」と称し、それが日本に伝わり「藪」と「野暮」の祖先となったそうです。
☆言語道断
現在の使われ方では、「もってのほか」のことを呼ぶことが多いのですが、本来の意味は「言語で言う(道は”言う”の意味)ことが難しいほど不可思議な仏法」のことを褒め讃えた言葉です。
それがなぜか意味が正反対に移ってしまいました。
言葉というものは、うつろいやすいものということでしょうか。