爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「若者はなぜ【決められない】か」長山靖生著

何を「決められない」のかというと、職業などの自分の未来に続くものということです。

つまり、「フリーター」と呼ばれる人たちを扱ったものなのですが、2003年出版の本ということで、まだ「フリーター」を選んでやっている状態だった頃です。

 

今となっては否応なしにフリーター状態に落とされるという方が実態に近いと思いますが、まだ当時はそれだけ余裕もあったのでしょう。

したがって、フリーターを論じるとともに、「オタク」も取り上げられており、現在のような非正規雇用労働者の問題が大きな社会問題となっている事態とはややずれを感じてしまいます。

 

しかし、まあその時点では妥当な考察であったのでしょうから、一応本書記述にそって紹介はしておきます。

 

 

「フリーター」という言葉は、1987年にリクルート社から発行されていた「フロム・エー」という雑誌の編集長が命名したそうです。

「フリー」と「アルバイト」をくっつけただけというものですが、当時の意識では押し付けられた状況ではなく、自ら選んでそのような生き方をする人たちという意味であったそうです。

したがって、社会一般の人びとから見た感覚も「困ったものだ」というのが普通だったようです。あくまでも「正社員として働かない(働こうとしない)」という意味で。

 

フリーターたちは、正社員である「サラリーマン」的生き方に嫌悪感を抱いてその方向に向かったということです。滅私奉公でモーレツサラリーマンという働き方は嫌だというのがその感覚でした。

 

しかし、そのような意志を持ったフリーター以外にも、会社を決め一生を決めるということに向き合うことを嫌うという、モラトリアムのフリーターという人も出てきます。

そういった人々は、親が安定した職業に就いており収入もあるという状況であることが多く、今のところ生活不安がないからということで、決定を先延ばしにしようとしているだけというのが実態でした。

 

本書はそのような様々なフリーターの意識、その周辺の考えなどにも言及しながら、さらに伝統的な貴族や地主階級の子弟という、働く必要がなかった階級というものにも話を広げています。

そしてそれは、労働というものを蔑視する意識ともつながるため、その名残が今でも存在するのではないかということです。

 

以上のように、出版から15年を経てさらに厳しい雇用状況になった現代から見ると、やや時代離れしたようにも感じられる内容になってしまいましたが、著者の責任ではなく、ここまで急速に進んだ非正規雇用の広がりのためなんでしょう。

2003年なんて、ついこの前という感覚もしますが、その間の世相の変化は恐ろしいほどのものです。

 

若者はなぜ「決められない」か (ちくま新書)

若者はなぜ「決められない」か (ちくま新書)