著者は古文書研究家の方で、前に古文書解読についての本も詠ませていただいたことがあります。
本書は、古文書の読み方ということに留まらず、そこから見られる江戸時代の庶民の姿というものを描き出しています。
なお、著者は各地で古文書解読の市民講座なども開設されているそうです。
本書の執筆の発端も、その講座の中で読むことはできてもその意味がよくわからなかった「間の宿」という言葉を調べなおすというところから始まったそうです。
古文書解読というものも、単に書いてある字が何かを解読する(それも難しいことですが)だけに留まらず、その歴史背景を考えていくと相当おもしろいものになりそうです。
さて、本書はまず江戸時代の古文書の表記法で現代とは違うものを挙げています。
現在は文字の書き方というものは相当標準化が進められており、学校でも宛字を書けば誤答ということにされてしまいますが、江戸時代には宛字のやり放題、かえってその方が普通ということも多々あったようです。
そして、それが「間違い」であるかもしれませんが、かえってそこに「味わい」があると考えると、古文書解読も一文字ずつに面白みが感じられるようです。
寺子屋の子供が書いた文書が残っており、そこにお師匠さんが書き込んだ文字に「浮空」とあったそうです。
前後の文章から、この意味は「うわのそら」だということは明らかですが、現在は「上の空」と書かなければ「☓」が付けられるでしょう。
しかし、著者はこの「浮空」は非常に魅力的な表現であると感じています。
心がふわふわと「空」に「浮かぶ」ような雰囲気が素直に表現されていると言えます。
漢字の書き方でもさまざまな方法が取られており、人それぞれです。
現在でも「嶋」や「峰」という字を「嶌」「峯」と書くことがありますが、その他の文字では見られないようです。
しかし、江戸時代には多くの文字で横に並べて書くところを上下に書くといったことが普通に行われていました。
松、略 といった漢字も上下に書かれている例があり、これも古文書解読の楽しみとなっているそうです。
言葉の使い方も現代とは異なっていることが多く、字が読めたとしても古文書解読が簡単ではない原因となっています。
「かけおち」は現代では普通は「駆け落ち」と表記されますが、江戸時代では「欠落」の方が多く使われました。
しかし、その用法の方がさらに多様で、現代ではほぼ「男女二人が恋愛のあげくに失踪」という意味でしか使われていないのに対し、江戸時代ではその他の用法も多いようです。
例えば、労働者(使用人)が奉公先を逃げ出して出奔という場合でも、一人であっても「欠落」したと書かれています。
年貢が払えなくなった農家が家族全員で行方をくらましても「欠落」と書かれました。
江戸時代の用法はかなり幅が広いものであったようです。
山城国のある村で、農家の小屋から火が出て全焼したという火事があったのですが、それに関する文書が下書き・写しも含めて11点残っているそうです。
とはいっても、その火事は農家の庭先の小屋から出火して延焼もせずに収まったのですが、それでも関連文書かずかずを役所に提出しなければならなかったようです。
さらに、近隣の家々にもお詫びの文書も書かれており、そのような文書のやり取りというものが村の生活の一つであったということがわかります。
冒頭に挙げた「間の宿」(あいのしゅく)ですが、東海道を例に取ると53次と言われるように53の宿場があったというのが公式の見解ですが、実はその宿場の間にも休憩や宿泊ができる場所がありました。
江戸の白木屋という店の使用人、庄右衛門が店を抜け出し出奔してあちこち歩き回り、その後店に戻ったという事件があったのですが、その調書が残っています。
中山道から東海道とかなり広い範囲を周り、さらに富士山にも登山したというすごい行動力なのですが、その中に「大浜と申す間の宿にて泊まり」という記述があります。
場所は前後の記述から三河の御油宿と赤坂宿の近辺と見られますが、よくわからないようです。
このような「間の宿」というものは幕府公認の宿場以外に多数存在していたようです。
江戸時代初期に宿場の制度が整えられた時にたまたま外された場合もありますし、その後宿場の間隔が長いところに自然発生的にできたものもあるようです。
しかし、こういった間の宿が増えると正規の宿場の営業に悪影響が出るということで、禁止されたり、休憩だけに制限されたということがあったようです。
世間にはまだまだ解読されずに埋もれている古文書が多数あるようです。
しかし、どうやら現在は古文書存続も危機にさらされているのではないでしょうか。
埋もれたまま闇に消える文書が少しでも救われれば様々な知識が残されるかもしれません。