爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「日本語の考古学」今野真二著

考古学とは、「遺跡や遺物などの具体的なモノを通して過去の文化を考える」学問ということです。

したがって、「日本語の考古学」というと、写本や印刷物など、実際に昔から残っているものから過去の情報を取り出すということになります。

 

日本における最初の文学作品である万葉集は、今の学校教科書にも取り上げられているので誰もが知っている歌もあるのですが、それらは普通は漢字かな交じり文で書かれています。

ひらがなというものが成立したのは10世紀初頭頃ですので、もちろん万葉集成立時の表記はまったく違うものでした。

 

しかし、元々は歌と言うのは文字通り歌われたものでしょう。

その後、いつの頃からか、文字にして記録されるようになりました。

万葉集も成立当時の原本が残っているわけではありませんので、いろいろな資料からその課程を想像してみるしかありません。

 

日本書紀の斉明4年の記事に、斉明天皇は詠んだ歌を伝えよ、すなわち記録しておけと命令したというものがあります。

この頃には、歌を記録するという行為が行われ始めたようで、実際に和歌を書いたと見られる木簡が出土しています。

万葉集の歌の詠まれた時期は4期に分けられて捉えられており、第1期は壬申の乱までで代表歌人額田王、第2期は奈良遷都までで、代表は柿本人麻呂、第3期は天平5年までで、代表歌人大伴旅人山上憶良、第4期はその後最後までで大伴家持です。

そして、文字を使って歌を記録するようになったのは第2期からと考えられています。

 

第2期の頃の歌木簡はいくつか出土していますが、その表記の方法は確立しているとは言い難いもので、さまざまな手法が見られます。

 

そのような混乱した表記だった万葉集を、天暦5年に村上天皇の命令で源順や清原元輔などが訓点を施す、すなわち読み方を整理するという大事業が実施されました。

これで成立した天暦古点本が、その後の万葉集写本の起点となりました。

現存する万葉集の写本の最古のものは、西本願寺本と呼ばれるもので、鎌倉時代の後期に写されたものです。

なお、断片的に残っているものでは、平安中期に源兼行によって書かれた「桂本」というもので、「栂尾切れ」と呼ばれてあちこちに保存されているそうです。

 

 

平安時代に入ると多くの文学作品が広まるようになりました。

その中でも代表格は「源氏物語」でしょうが、ではその作者とされる紫式部が書いた原本は残っているでしょうか。

それはまったく存在が知られていませんし、そもそも発表当時も本当にあったのかどうかも不明です。

つまり「紫式部源氏物語の作者」といってもそれを証明することが難しいということになります。

現在残っている源氏物語写本のうち古くて原本に近いと見られるのは藤原定家の写本ですが、それもどこまで原本に近いのかも証明できません。

 

実は、原本がなくても紫式部源氏物語を書いたということは、他の資料から推察できます。

それは「紫式部日記」で、そこに物語の本の書写をあちこちに依頼するという記事があるそうです。

つまり、作者自らがすべてを書いて一気に発行したというものではなく、巻ごとに何人もの人に書写を依頼して作っていったようです。

したがって、そこには書き間違いも出たでしょうし、何種類もの原本が存在した可能性もありそうです。

 

 

なお、紀貫之の「土左日記」(この左の字が使われていたようです)は作者自らが書いた原本が少なくとも1492年までは確認されていたことが分かっています。

この原本からこれまでに少なくとも4回の書写が行われていますが、その中でももっとも原本の状態を反映しているのが、藤原為家が1236年に書写したもので、それを江戸時代に忠実に模写したものが青谿書屋本と呼ばれるものだそうです。

 

なお、藤原定家もこの貫之の原本を見たそうですが、定家が読めなかった字がすでに出現していました。

土左日記はすべて平仮名で書かれていますが、その平仮名の種類というものが貫之の10世紀と、定家の13世紀ですでに変わってきていたということです。

貫之当時に平仮名の「さ」には「左」の行書体から来た字体とともに「散」の行書体からの文字も使われていました。

しかし、11世紀にはその字体は使われなくなり、定家の13世紀にはまったくその記憶も失われていたようです。

 

その他の字にも、字体が複数存在していた歴史があったのですが、その経緯というものは複雑で時代時代で違いがあったようです。

それが、すべてを一つに強制したのが1900年に定められた「第1号表」だったということです。

 

 

「松の木」「桃の木」というのは一つの単語ではなく、複合語というのが現在の普通の語感でしょう。

それに対し、「ヒノキ」「エノキ」というのは複合語とは意識されず、一つの単語として辞書にも載っており、そう扱われています。

 

この問題はすでに7世紀の木簡にも見られるものです。

椿を「ツ婆木」と表記してあるものが徳島県観音寺遺跡から出土しています。

問題は、これは単に「椿」の音(すなわち、”ツバキ”)を漢字に移したのではないということです。

当時の発音では、「キ」の音は2種類あり、それを甲類・乙類と表現すると、「ツバキ」の「キ」の音は「キ甲類」であるはずなのに、「木」の読み方は「キ乙類」であるからだということです。

つまり、「ツバキ」という音をそのまま漢字に移したのではなく、あくまでも「木」の種類であるという認識のもと、あえて発音が少し違っていても「ツ婆木」と表記しているわけです。

 

このような例はその後も数多く見られるとか。これは語源を意識した表記とも言え、「木の種類だから」という意識が影響したんでしょうか。

 

現在の資料はあくまでも書き直されたものということをしっかりと認識していないと、思わぬ勘違いをしそうです。

 

日本語の考古学 (岩波新書)

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