本書副題から、特に哲学書などに見られる直訳調のわかりにくい翻訳を問題とした本かと思いましたが、とんでもなかった。
その内容は非常に広範囲に広がり、ドイツや明治日本の学問の広がり、教養主義、カントやヘーゲルの学問についてなど、幅広くしかも固く論じています。
とても、新書版の本には入れ込めないような広く深いものを無理やり詰め込んだとも感じます。
簡単な内容かと思って手にした人の中には途中であきらめた人も居るのでは。
著者は近代ドイツ思想史が専門という、大学教授で、特に近代化における文化干渉にご興味がお有りということです。
したがって、日本の特にドイツ哲学書の翻訳がなぜこのように直訳にこだわったかということも、単に語学力の低さに解決させるのではなく、心理の底に流れるものまで洞察するというものになっています。
しかし、哲学というのは私の教養の中にはほとんど入っていないものだったために、すべてを理解するのは無理でした。したがって、一部のみの解説・感想となります。
引かれているのは、それほど古い時代のものではなく、戦後の向坂逸郎訳のものです。
しかし、硬い直訳調の訳文でしかも何がどれを指すかもわかりづらいというものです。
著者が試みに同じ文章を訳してみると、難しいのは仕方ないにしてもまだ頭に入りやすくなります。
資本論は20世紀初頭になって日本でも数人が翻訳に取り組み出版されるようになりました。
その中で、高畠素之という人の訳したものが1924年に出版されています。
高畠は大学研究者ではなく、社会主義雑誌などを編集発行していた市井の文人と言うべき人で、ドイツ語の勉強も独学で行いました。
しかし、彼の訳した資本論は文章の意味も理解しやすく、一般人までを対象としたものになっていたようです。
その高畠訳に対して、三木清は文法的に問題ありと批判を加えました。
逐語訳がより正確であり、そちらを取るべきという論法です。
こういった批判の上に、その後の向坂訳も立っているわけです。
本書の次章はドイツ近代化の詳細な解説(細かすぎて難しすぎます)に入りますが、そこは略。
日本の近代化が次に述べられています。
江戸時代にも内からの近代化というものが徐々に進んでいました。
しかし、明治に開国するや西欧からの圧倒的な流入に振り回されることになります。
その範囲は法律思想などから、建築土木、医学などあらゆる分野に及んでいます。
そして、それらの外国語書物をすべて翻訳して日本語化しているのですが、それが極めて短時間に進んでいたということも、それだけ外国語習得を必死に行った人々が多数居たという証拠になります。
この時期は上からの近代化というべきものでした。
それを実施したのは、討幕にあたった薩長などの地方雄藩の、それも下級士族でした。
彼らは多くの武士を政権から追放したために、江戸時代の文化というものも多くを捨て去ったことになります。
そして、民衆に対しては植民地さながらの圧迫を加えました。
彼らの権力に追随する後継者養成というものが必要となり、国家による高等教育制度整備が進みました。
これが、その後に続く輸入学問の受容、そして翻訳文化の形態に大きな影響を与えているというのが著者の見解です。
そこでは、欧米とは異なりジャーナリズムとアカデミズムの乖離というものも激しく起こりました。ジャーナリズムに属する人は一段低く見なされることとなり、彼らが民衆向けに分かりやすく報道するということも貶められたことになります。
逆に、アカデミズムの分野ではことさら難解に文書をひねることが必要となっていきます。
このような翻訳文化というものは、戦前だけのものではなく戦後になっても長い間強い影響を持っていたようです。
現代では教養というものが価値を亡くしてしまったという論評もありますが、本書を見るとその教養主義も問題を含むものであったということに気付かされます。