爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「海の向こうから見た倭国」高田貫太著

よく読ませていただいている、オヤコフンさんのブログで紹介されていた本です。

図書館に購入希望を出しても待ちきれないので、スカイツリーから飛び降りるつもりで久々に自分で買いました。

 

massneko.hatenablog.com

著者の高田さんは岡山大学で考古学を学ばれ、その後韓国の慶北大学校で博士号を取られたという方です。

岡山大学在学中に吉備地方の古墳発掘にも参加し、そこで朝鮮半島由来の異物が多数見られることから古代の日本列島と朝鮮半島の深い関係を感じ、その方向の研究を深めることを目指されたそうです。

 

 

古代の日朝関係というと、かつての神功皇后三韓征伐などということを信じる人はもはや居ないでしょうが、百済と友好関係を結び新羅と争ったと言った程度の認識しかなかった私と、誰も同程度の印象しか持っていないのではないでしょうか。

そこに高句麗との関係まで入ってくるともう分からなくなってしまいます。

 

しかし、どうやら実際はかなり複雑な事情が朝鮮半島、日本列島の双方に存在したようです。

それが、詳細な考古学的検証により見えてきます。

 

本書冒頭には、本書の理解のためにとして簡略にまとめた「デッサン」が置かれています。

非常に理解しやすく配慮された構成で、お若いに似合わず(40歳になられたとか)周到で筆力にも優れていることが感じ取れます。

 

そのデッサンによれば、

 弥生時代後半 日朝の沿岸に住み漁労を生業とし優れた航海技術を持つ「海民」により日朝間の交易が本格化する。半島南部と北部九州に多数の国が成立。

 

三世紀後半 金海と北部九州を幹線の両輪とする交易が充実。洛東江河口と博多湾に大規模な港が整備される。なお、畿内に成立した倭王権は金官国(狗邪)を重要なパートナーとして直接交渉を目指す。

 

四世紀前半 倭王権と金官国の直接交渉が本格化し、博多湾を経由せずに沖ノ島を通るルートが整備される。博多湾沿岸の港は急速に衰退するが、北部九州は倭王権からは独立した形で活動を強める。

 

四世紀後半 高句麗の南下の圧力が強まり、百済倭王権に接近を図り、金官伽耶と倭と百済の同盟が成立する。新羅高句麗に従属することで安定を図るがその一方で倭との交渉も始めていた。

 

五世紀前半 高句麗がいよいよ勢力を増し南下する。金官伽耶は衰退するがその代わりに台頭した大伽耶国が倭との交渉を活発化させる。

倭でも王権だけでなく瀬戸内や北部九州の地域社会が独自に外交を展開する。

 

五世紀後半 新羅が力をつけ高句麗の影響下から抜けようとする。そのために倭との交渉を強める。倭王権は国内の勢力の押さえ込みに乗り出し、まず吉備の中心勢力を倒す。

 

六世紀前半 新羅が伽倻に攻め込み、金官伽耶は滅亡、百済、大伽耶新羅の対立が激化。各国とも有利を保つために倭との交渉を個別に強める。

新羅と九州の大首長「磐井」との関係強化が倭王権を刺激し、磐井の乱の引き金となる。

この時期に、朝鮮半島西南部の栄山江流域の勢力が倭との交渉を活発化させる。

倭とのつながりが大きくなり、その地域に多数の前方後円墳が築かれる。

しかし、百済新羅により小勢力は征服され、さらに倭王権が列島内の対抗勢力を併合しこれ以降は日朝間の交渉は王権同士で行われることになる。

 

 これら各時代の特徴を豊富な考古学的発掘の結果から論証していくわけですが、細部はとても紹介できませんので、幾つかの点のみ引用します。

 

 

3世紀後半まで反映した博多湾の港ですが、西新町遺跡(福岡市早良区)は4世紀には衰弱し後半には消滅してしまいます。

それと連動するように、玄界灘沖ノ島が繁栄し始めます。ここは現在でも祭祀場として神聖視されていますが、そこからは弥生時代後半からの朝鮮半島系の土器や西日本各地の土器も出土するそうです。

朝鮮半島側の古金海湾の交易港は西新とは対照的に4世紀に入っても繁栄を続けます。ただし、金官伽耶の王族の墓地からは倭王権から送られた貴重な品々が副葬品として出土するようになります。

これが、この時期になって金官伽耶倭王権が直接交渉を始めた証拠と見なせます。

 

 

前方後円墳は日本独自のものであるとされてきましたが、朝鮮半島にも存在することを示したのは、1987年に韓国の姜仁求氏が初めてでした。

90年代に入り相次いで前方後円墳が発掘されました。

そこに埋葬されていたのがどのような人物かということは日韓の考古学界で論争が続いていますが、在地首長説、倭系百済官僚説、倭人説とあるようです。

ただし、これら栄山江流域周辺の前方後円墳には副葬品として百済や伽倻、倭の品物も多く、様々な地域の勢力と関係があったことは確かなようです。

しかし、この地域は6世紀には百済に併合されてしまい、その後は前方後円墳の造営は行われず百済式の横穴式石室になってしまいます。

 

 

巻末の「これからの課題」には倭各地の前方後円墳が築かれた背景の詳細な解明が必要とされています。

前方後円墳が築かれたからといって、その地域が倭王権に服属したということを意味しないとされています。

6世紀の前方後円墳で第4位の規模を持つのは筑紫の磐井が築いた岩戸山古墳でしたが、その後磐井は倭政権に見切りをつけて新羅と結んでしまいました。

面従腹背の首長も多かったようです。

 

当時の日本と朝鮮半島とは一衣帯水という言葉通り、密接なネットワークが絡み合ったような世界だったのでしょう。

それを解きほぐしていくような考古学研究というものも興味深いもののようです。

 

海の向こうから見た倭国 (講談社現代新書)

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