爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「不愉快なことには理由がある」橘玲著

橘さんの本は以前にも一冊読みました。

sohujojo.hatenablog.com

今度の本も前に読んだ本同様に週刊プレーボーイ誌に連載されたコラムをまとめたものということですが、年代は前のより少し昔のもののようです。

 

前の本でも感じたことですが、週刊プレーボーイ誌という発表媒体はおそらくあまり政治経済や文化的な議論には縁の無い読者が多いという想定で書かれているようで、一般常識的な見解とは少し違った見方というものを、あえて意識的に取り上げて展開されているように感じます。

 

まあ、言ってみれば無垢な青少年に少し毒のある論議を見せようとしているかのようなテクニックでしょうか。

 

そういったものは私らのようなひね放題にひねた老人にはちょっと物足りないものに見えてしまうのは仕方がないことでしょうが、著者の想定外の読者であるということであきらめましょう。

 

先に読んだ本と同様に、本書も週刊誌連載のコラムを政治・経済・社会・人生とグループ分けを施して並べ替えているようです。

なお、プロローグの部分は新たに加筆して加えられたもののようです。

 

プロローグの中で、経済学についての解説は私自身が理系で大学で経済はまったく縁がなかったためにすっきりと分かりやすいものでした。

 

経済学にはマクロ経済とミクロ経済とがあり、(この用語自体は聞いたことがあります)マクロ経済は市場全体の仕組みを論じ、ミクロ経済は家計や企業行動等、経済を主体とする行動そのものを論じます。

しかし、ミクロ経済の方ではゲーム理論行動経済学(心理学)と関わり合って展開している一方、マクロ経済はいまだに市場の動きを確率論や微積分などで解析するだけのレベルに留まり、市場予測どころか現状解析も怪しい程度に低迷しているとか。

もやはマクロ経済学は破綻しているそうです。

 

フランス革命は人類の歴史の中でも現代につながる大きな変革であったのですが、そのスローガンは良く知られているように「自由・平等・友愛」(友愛は日本では博愛とも言われている)です。

自由と平等は誰でもすぐに理解できますが、「友愛」(フラタニティ)とはなんでしょう。

これは実は中世イングランドで自然発生していた宗教団体(結社)を表します。

商売仲間を表す「ギルド」ともつながる概念でした。

 

フランス革命に至り、宗教的な意味合いは無くなり同じ目的のもとに闘う「仲間」という共同体を重視するというものになっていったそうです。

 

ただし、自由・平等・友愛というそれぞれの「正義」は両立しないことも多く矛盾する場合があり、その解決は原理的に不可能ということです。

 

 

日本人は決断できないということはよく言われます。しかし日本人だけが特殊ということではないようです。

典型的な農耕社会を考えてみると、土地にしばられた社会では「全員一致」以外の意思決定は不可能であったと言えるでしょう。

近代以前のユーラシア大陸は全体が農耕社会であり、どこでも似たような状況であったのではということです。

それでは多数決というものはどうするか、それは多数決に敗れた少数派は自由に退出することが保証されなければならないというのです。

古代ギリシアでは移動が比較的自由でありもしも意にそまぬ多数決がなされれば退出も可能であった。それでこそ多数決決定が可能となるということです。

しかし、現代では世界中どこでも自由に退出できるところはありません。したがって多数決ですべて決めるということは少数派の痛みを伴い恨みを募らすことになるのでしょう。

 

それでは、「日本人が特殊」というのは間違いなのか。

実は「世界価値観調査」というものがありその中で、戦争で国のために戦うか、自国民であることに誇りを感じるか、権威や権力は尊重されるべきか、という設問に対して否定する比率が非常に高いという特徴があるそうです。

世界的にもこれは珍しいということですが、まあ当然じゃないと思いますが。

 

このコラムの初出の当時は、滋賀県大津市でいじめを受けていた中学生が自殺し大きな社会問題となっていた頃です。

いじめは公立中学でしか起きていないというのが著者の分析です。

高校ではいじめがあっても自殺まではなかなか起きないとしていますが、それはそうなれば高校は退学することもできるからだと言っています。

私立中学でもこういった事件はあまり起きません。これは、問題のある生徒は片っ端から退学処分にしているからだということです。

公立中学では教師は退学処分という手段を使うことができません。いじめる側の生徒とも3年間付き合わざるを得ません。

ここをなんとかしなければいじめ自殺という事件発生は止められないでしょう。

 

いじめというのは、人間社会では不可避なものです。学校だけでなくどんな集団でも存在します。

いじめを無くしましょうなどというのは不可能であり、それが存在することを前提として最悪の状況になることだけは防ぐこと。つまり仲間はずれにされた生徒は容易に別の学校に移れるようにする程度のことしか対策はないのではないかとしています。

 

ちょっと考え方を変えてみるということで、本当の解決策が見えてくる。著者の姿勢はこういったものと思います。

 

不愉快なことには理由がある

不愉快なことには理由がある