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爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「学歴分断社会」吉川徹著

社会の動きとその基底にあることの関係は非常に複雑で様々な要因が関わってくると思いますが、そのあたりを思い切りよくスパッと切って説明するとたしかに分かりやすいというのが本書でしょう。

 

ただし、それがすべて正しいとも限りませんし言い切ることで危険になることもありそうです。

 

本書がここで言い切っていることは「今の日本は大卒と高卒を分ける学歴で真っ二つに分断されている」ということです。

 

そんなバカなと思うのが普通ですが、その思いを保留して読み進めてみると意外と当たっているのかと思わせるものがあります。

もちろん、それ以外の事例や当てはまらない場面などが無数にあることは著者も承知の上でしょう。それでもこれで説明するのが一番ということのようです。

 

今の日本は「格差社会」であるといことが言われてきていますが、それについての論争も盛んです。

そもそも格差があるかどうかというところから論争されており、さらにその原因や対処など非常に多くの議論がされています。

 

しかし、そこで各論者が(意図的にか)触れないのが「学歴差」というものです。

 

今から30年ほど前に、「一億総中流社会」ということが言われました。

しかし、その当時は実はその構成社会人の多くは中卒で社会に出た人々でした。

それから着実に高卒や大卒が増えていき、現在では大卒(短大・大学院卒を含む)と高卒(専門学校卒を含む)とがほぼ同数で若干の中卒(高校中退を含む)が居るという状況になっており、しかもこの状態がしばらく続くものと見られます。

 

大学全入時代」ということが言われています。大学進学志望者は学校学部に拘らなければどこかに入れるということですが、実は「そもそも大学進学志望しない人々が半数は居る」ということはあまり認識されていないようです。

 

かつては「大学に行きたいのに仕方なく高卒で就職」という人が多数いました。現在でもそのように言われておりその救済に奨学金制度の充実などが言われていますが、どうも実際はそのような人は少なく、ほとんどが「行きたくもないので就職」のようです。

 

高等教育進学熱というものが高かった時代には、その親の代は大卒でなかった場合がかなり多かったようです。

彼らは自分たちは大卒でないので損をしており、子供には大学に行かせたいという熱意を持ちました。

そのためか、子供の名前に「学」や「智子」「理恵」といった知識を目指す名前を付ける風潮が強かったようです。これは1965年頃から80年頃まで続きました。

ちなみに、かつての戦争時代には「勝」「勇」「武」といった名前に人気があったのですが、終戦とともに終わりを告げ、その後高学歴志向の名前に移りました。

その後は男子では「陸海空」、女子では「花と植物」という傾向になっているそうです。

 

なお、学歴社会というと大卒・高卒の区別ということではなく、東大京大、早慶といった「出身学校による差別」が意識されることが多いようです。

これは「学歴」とは区別して「学校歴」と呼ぶべきものですが、「現在は学歴ではなく実力だ」とか言われる場合はこの「学校歴」を指しているのが実状のようです。

確かに、学校歴というものはそれほど重視されなくなってきたのが事実のようです。しかし、大卒かどうかという本当の意味での「学歴」はさらにその存在感を増しているというのが著者の主張です。

 

18歳、高校卒業時の選択でその後の人生が決まるというのは、実は世界的に見てもそれほど広く分布している体制ではありません。

欧米ではそれ以前に上流社会の学校に行くか一般校に行くかで分けられますし、途上国ではそこまでたどり着くことも容易ではありません。日本の状況は世界でも韓国にしか無いようです。

 

 

現代が格差社会かどうか、その議論をする上でも考えておくべきことが、職業の流動化ということです。

正社員になれない非正規雇用の労働者というものが増加しているのは事実でしょうが、こういった人々は同じ職業を続けていてもそこでのキャリアアップは見込めず、いつまでたっても単純労働のままという事態に陥っています。

これは状況としての困難さも言うまでもなく存在しますが、同時に階級・階層社会を考えていく上でも事情をとてつもなく複雑にしています。

 

かつての総中流社会では下層の労働者であっても同じ企業に勤めて長年勤め上げればある程度の財産を得て安定を得ることができました。

しかし現在では上級の労働者であってもいつまでもその職が続けられるかも分かりません。

結局、「格差社会の是正」などということよりは、全体としての豊かさ向上があればそれで十分だったのです。

 

今日の日本で学歴それも大卒というものが、高い地位や収入を得るための価値があるというのは間違いないことです。(ただし、持ってさえ居れば良いと言うものではありません。あくまでも最低条件というものです)

しかし、それとともに日本においては最終学歴というものがそれを卒業した人にとっても人を見る一つの判断基準となっている事実があります。

したがって、大卒は大卒と結婚する傾向が強く、また大卒の母親は子供を大学までは進学させたいとしがちです。

 

親と子供の学歴をまとめた調査例がありますが、親も大卒子供も大卒という大卒再生産家族、親は高卒子どもが大卒という学歴上昇家族、その逆の学歴降下家族、親も子も高卒という高卒再生産家族と分類されています。

この1950年から1990年までの結果を見ると、最初の頃は学歴上昇家族が多数を占めていますが、徐々に大卒再生産家族に移行していきます。

これがほぼ定常状態に近づいているというのが著者の見方であり、その比率は大卒再生産家族と高卒再生産家族がそれぞれ35%、上昇下降がそれぞれ10%であろうとしています。

 

ここで著者は現代の格差社会と、ここまで説明してきた「学歴分断社会」をつなげて説明しようとしています。

これには批判もあるでしょうが、一応本書記述を説明しておきます。

 

下流社会と言われている「下流」というものは著者のいわゆる「高卒再生産家族」であろうということです。

下流社会という本を出版しこの言葉を広めたとも言える三浦展氏の分析を紹介していますが、大卒・非大卒、収入金額、正規・非正規雇用等の括り方で様々な考察をしているものの、吉川氏が分析するにはやはり「大卒・非大卒」の区分が最も当たっているとしています。

 

なお、このような社会分断が起きているといっても一方の高卒学歴者が必ずしも不幸であり不満を抱えているということではないとも指摘しています。

現代社会では高収入を得ようとすればどうしても大都会東京などで大会社勤務ということが必要となりますが、それは大多数の地方在住者には不可能です。そのため、初めからそれは目指さずに低所得でも家の近くで勤めて親と同居というライフスタイルが高卒学歴と重なってくるとしています。

それはそれで間違いではなく、それが選べるというのも一方的に否定できるものではないようです。

 

ただし、現代では中卒(高校中退を含む)という人々はそのような生活状況も確保できず、貧窮世帯へ進んでしまうようです。これは困窮対策として取り組むべきです。

 

最後に書かれているように、著者は「格差」は「学差」であるという思いをさらに強くしているとのことです。

本書はその思いを一般向けに分かりやすく書かれていますので、学問的な正確さは欠いているのでしょうが、主張は強く伝わったものでした。

しかし、2009年の出版でその後それほど物議を醸したということも無かったようです。日本人にとってはあまりにも当然過ぎる主張だったのかもしれません。

 

 

学歴分断社会 (ちくま新書)

学歴分断社会 (ちくま新書)