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爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「すらすら読める 正法眼蔵」ひろさちや著

禅宗の一派、曹洞宗を日本で開いた道元が遺した大著である正法眼蔵は有名な書で、高校の歴史でも習いますので誰でも聞いたことはあるでしょうが、おそらくほとんど読まれてはいないでしょう。

 

ひろさちやさんが、道元に関する簡単な解説と本文の一部の原文および解説文で、正法眼蔵についての理解がし易いように書かれています。

 

ただし、著者自身は座禅体験をして悟りを得ているというわけではなく、道元の言う禅体験による伝達ということもされているわけではありません。

しかし、この正法眼蔵という本は宗教書であると同時に哲学書としての性格も強く持つものであり、そういったものとして解説することは著者でも可能であろうという立場からの執筆ということです。

 

道元は道を訪ねて宋に渡り、各地の寺を訪れて多くの師に教えを乞いましたが、その疑問を晴らしてくれる師にはなかなか巡り会えなかったそうです。

しかし、天童山の如浄禅師のもとで参禅した時に身心脱落という言葉を聞いて悟りを得ました。

すべてを捨てて日本に帰国した道元は只管打座により僧侶を指導する寺院を建てここに曹洞宗を始めたのです。

 

座禅だけで伝えるという曹洞禅になぜ正法眼蔵が必要なのか、ちょっと矛盾するようですが、道元は禅体験だけでは伝えられないことも書き残したかったようです。

もう一つの禅宗臨済宗では公案というもの、練習問題のようなものを使うという特徴があり、それに対し曹洞宗では公案を使わず言語媒介なしに禅だけで伝えようとしています。

禅体験なしには悟りに近づけないのはもちろんだが、言語でそのおおよそを伝えられるのが正法眼蔵ではないかと著者は書いています。

 

正法眼蔵は難解であると言われています。

しかし、それはこの書を「禅の典籍」として読もうとしているからではないか。

道元は宗教者でありながらすぐれた哲学者でした。正法眼蔵はあくまでも哲学書であり、そのように読めばさほど難解ではないとしています。

 

正法眼蔵は75巻からなっていますが、本書後半ではそのうちの32巻のそれぞれ一部の文章を解説しています。

そちらは略しますが、読めば分かるところもあるかもしれません。

 

すらすら読める 正法眼蔵

すらすら読める 正法眼蔵