著者の加藤さんは慶応大学の環境情報学部というところの教授。そして経済学部出身ということですので、「おべんとうのメニュー」とか、「美味しいおべんとうの作り方」といった内容ではないことは明らかです。
日本が世界に誇るべき文化である「おべんとう」というものについて、様々な角度から社会文化的に解析したものと言えば良いのでしょうか。
各章は「おべんとうと何々」という表題になっており、その「何々」の部分は、移動、場所、時間、技術、メディア、そして「食べる」となっています。
弁当の移動という面では、歴史的にどういった場面で弁当が食べられていたかを振り返っていますが、弥生時代から存在したと見られる弁当は旅や労働の場で持参され食べられていました。
その後、徐々にその場面が拡大していき、江戸時代には遊山、芝居、通勤用に、そして昭和になると「自宅で食べるために購入」という場面が登場、平成になり「製作を趣味とする」「娯楽で作る」「教育目的で作る」なんていう用途も出てきます。
弁当には温かさを求めて、魔法瓶構造の弁当箱というものも存在し、加熱構造付きの駅弁、また購入弁当の電子レンジ加熱といったことをする反面、「冷めても美味しい」という弁当を追求する方向性も存在します。
駅弁はほとんどが冷めた状態で食べられますので、それに適した味付け、中味の選択というものもかなりの程度まで向上したものとなってきました。
横浜の崎陽軒のシウマイ(シュウマイと書いてはいけない)はそれのために中味の成分まで工夫されており、ホタテ貝柱が入っているのは有名な話ですがその理由も冷めても肉臭さが出ないようにと言う意図があったからだそうです。
インドの映画「めぐり逢わせのお弁当」で描かれた「ダッパーワーラー」という職業は、家庭で作られた弁当をそれを食べる家族の職場まで届けるというもので、ムンバイでは1日に13万個の弁当が5000人のダッパーワーラーにより届けられているそうです。
インドではそのように家族が出勤した後に主婦が弁当を作るために、そういった職業も成り立つのですが、日本ではほとんどの人は出勤時には「弁当を持って」出かけます。
ということは、その時間までに弁当を作らねばならないということになり、その製作も早起きし手際よくやらなければ間に合いません。
そのために、時間のかかるようなメニューは入れることができず、とにかく「時短」というものが求められます。
そのために、前夜の食事で弁当に入れるものも作るとか、週一度大量に惣菜を作って冷凍しておくとか、冷凍食品を1-2品入れるといった工夫をすることになります。
電子レンジもその発売当初(1965年)には「こんな機械は使いようがない」と酷評されたものでした。しかし、特に弁当にまつわる状況では現在では不可欠のものとなっています。
最近の弁当では「キャラ弁」というものも大きな話題になっています。
賛否両論、いろいろと騒がれていますが、実は「弁当の見栄え」に気を使うと言うのは今に始まったことではなく、かつても「ウインナーのタコさん」や「りんごのうさぎ切り」といった工夫はされていました。
子供たちが気持ちよく弁当を食べられるようにと言う、母親の想いが詰まっていたのでしょう。
なお、キャラ弁においてはいろいろなキャラクターがライセンスを事実上無視して使われており、個人が食べるだけなら黙認ですが、それをSNSなどで広範囲に拡散しているのはちょっと問題もありそうです。
香川県の小学校で始まったのが、「弁当の日」という試みです。その後大きく広まっているようです。
自分で弁当を作り、それを持ってきて皆で食べるということをすることで、食というものに真剣に向き合わせるという意図があるものです。
ただし、その日には欠席してしまうという児童も居るのも事実です。
提唱した先生はその点についても「欠席した児童はその事実を社会に突きつけている」と肯定的に捉えているようです。
弁当というものがこれほどまでに大きな意味を持つ日本社会というものは、その方向から見ていくことで特色も見えるということでしょうか。
なお、私も会社勤務の頃は長いこと家内の作った弁当を持って通勤していました。
退職後はそれも食べることがなくなりましたが、時々懐かしく思い出します。