西成さんは非線形動力学がご専門という物理学者ですが、社会現象にも興味を強く持ち、「渋滞学」や「無駄学」といった分野の研究もされているそうです。
その一環として?、「誤解学」というものも取り上げて本にしてしまいました。
この経緯は本書中にも書かれていますが、渋滞学というものを扱った結果を本にして販売したところ、書評がいろいろと書かれたのですが(それだけ読まれたということでうらやましいものです)それがまったく間違いだらけの理解に基づく言いがかりのようなものばかりだったそうです。
それまでは研究論文は発表していても、それを読む読者というものは同じような分野の研究者であり、誤解の入る余地はほとんど無く、指摘があったとしても内容の根本についてのものばかりだったので、その対処に苦慮したそうです。
そこで、「誤解」というものを自然科学的な理解のもとに解析してみようと考えて「誤解学」というものを始めてみたそうです。
その手法はあくまでも自然科学です。
本質を捉えながらも枝葉の部分は削ぎ落として理解しやすくする「ミニマムモデル」というものを想定して考察していきます。
その基礎になるのが著者の考案した「IMV分析」というものです。
IはIntension(真意・意図)、MはMessage(情報)、VはView(見解)を表しています。
I=Mの場合もあり、I≠Mの場合もある。またM≠Vの場合もあると考えていくと、受け手と伝え手の関係はかなり単純化できます。
もちろん、I(真意)といってもいろいろな場合があり、それは細かく考慮する必要がありますが、最初は単純化して解析を進めるわけです。
通常の人間同士の交渉の場合は、伝え手と受け手が相互に入れ換わりながら繰り返し続きます。そのためにIとVとも頻繁に交代します。
その過程で徐々に不適合が積み重なっていくと誤解が生じることになります。
社員たったの16人の小企業の例が載っていますが、この社内でもそれぞれの言葉の定義が人によって異なることで伝える内容が異なり誤解が生じることが頻発したために、社長の発案で「計画」「生データ」「ブランド力」といった一般名詞と言うべきものでもあらためて定義し直して社内で通用させたそうです。
そこまでしなければ誤解を防げないのか。
誤解が生じた後の対処についても述べられています。
誤解の結果の齟齬を、収束させるか、発散させるか、中立かという3通りの対応があり、できれば誤解は収束させるべきでしょうが、それにはとてつもない労力がある場合もあり、多くの場合は中立型対応(放っておく)の方が良い場合が多いとか。
本書で扱われたものは人と人とのコミュニケーションについて、かなり根本的な部分に迫るもののようです。
なかなか興味深いものですが、他の人の意見も聞いてみたいものです。
なお、こういった本を読むとどうしてもあの度々起きる、政治家の放言のあとの言い訳を思い出してしまいます。
「私の真意はそうではない」「発言の一部を捉えて誤解された」といったものですが、これは本書のような分析を加えるとどうなるのでしょうか。
「私の真意」≠「私の発言」 「皆の受取」=「私の発言」 「私の真意の中の真の部分」≠「私の真意」(と称するもの) 「私の真意の中の本当の真意」=「皆の受取」といったところでしょう。