爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「教科書の中の宗教 この奇妙な実態」藤原聖子著

2006年の教育基本法改正から、学校教育において愛国心などを扱うべきという言わば宗教教育推進派という人々の声が強まっていますが、それに反対する人たちも含めて皆が誤解していることがあるようです。

 

それは、現在までの教科書が「政教分離」の原則により記述されていて宗教については書かれていないということです。

著者の調査によれば、実は多くの宗教的な価値観が教科書記述の中に入っており、しかもそれが実際の宗教の真実とは関係なく、教科書著者の勝手な思い込みにより適当に形を変えられて使われているだけだということです。

 

なお、本書で「政教分離の原則を踏み越えている」として指摘されているのは以下の点です。

宗教に関する記述が中立的・客観的でない。

特定の宗教に対する不用意な価値判断、偏見差別が見られる。

 

この状態で教育基本法改正の結果、宗教に関する一般教養尊重といった原則で記述を増やしていけば、今後の教科書記述で諸宗教に対する理解が深まるのではなく、偏見が増すだけになるのではというのが著者の危惧です。

 

宗教教育といっても「宗派教育」「宗教的情操教育」「宗教知識教育」の別があります。

宗派教育が一番分かりやすいものですが、特定の宗教への信仰を育むことを目的として行われます。

現在でも宗教的私立学校ではこれが実施されているところもありますが、公立校では許されるものではありません。

 

宗教的情操教育というのが問題となるところです。

これは一つの宗教に偏った教育ではないのですが、生命に対する畏敬心、人間の力を越えたもの(神?)に対する畏敬心といったものを尊重するという立場まで教えるということになり、特定の宗教の価値観が入り込む怖れも強く公立校での実施は困難と考えられていました。

これは政教分離とも反する可能性が強いと考えられていますが、実際はすでに「倫理」の教科書に多く記述が入り込んでいます。

これを文科省では「道徳教育」と言っていますが、そこに様々な宗教に対する偏見や誤解が見られます。

 

宗教と哲学とは違うようで同じ場面が見られ、プラトンアリストテレスの次にイエスやブッダが出て来るのも避けられません。

しかし、その取り上げ方によっては宗教も事実として書かなければならなくなり、イエスの復活も事実として書くのかどうかという問題になってきます。

 

取り上げ方にも宗教とは言えない面があり、キリスト教を語る時は「愛」、仏教を語る時は「慈悲」ばかりというおかしなことになります。

それぞれの宗教の存在価値はそれだけではありません。しかし、都合の良いところだけ扱うためにそこだけに限られるようです。

 

日本でよく知られているのは仏教キリスト教であるためか、その他の宗教の説明も公平とは言えないものです。

各宗教の違いを強調しすぎるために、宗教間の対比ばかりに力を入れ、共通する宗教としての性格には注目しないという点もあるようです。

 

また試験に問題として出す都合上、宗教的には割り切れないものも切り捨てて記述してある場合もあり、正当な理解には至らないものも多いようです。

 

結局、現在の倫理の授業は「イエスやブッダの教えからよいところを取り入れて自分を高めましょう」という形になっているために、キリスト教仏教の「宗派教育」に化しているのではというのが著者の主張です。

このスタイルは生徒たちが多様化し別の宗教の信者も居る場合には直接「信教の自由」に抵触するという事態にもなりそうです。

 

どうも、道徳や倫理などというものには胡散臭さを感じてしまうのですが、どうやらそこにつけこんだ問題点がかなり大きいようです。

 

教科書の中の宗教――この奇妙な実態 (岩波新書)

教科書の中の宗教――この奇妙な実態 (岩波新書)