爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「教養としての宗教入門」中村圭志著

中東などでの武力衝突が宗教対立と言った観点から捉えられたりすることが多くなり、イスラム教とキリスト教の違いと言ったものに関心を持たれる方も多いかもしれません。

また、日本人は一般的に「無宗教」と言われることがありますが、一方では毎年の初詣は欠かさず、葬式はほとんどが仏教式で行われます。

こういった宗教にまつわる事柄はまったく知らないと外国人との会話にも困ることにもなりかねません。

 

本書はこういった一般日本人が最低限知っておくべき宗教というものを教養として身につけることができるように書かれたというものです。

 

したがって、最初の項目も「濃い」宗教、「薄い」宗教といった分かりやすそうな説明から入っています。

 

とはいっても、イスラム教が「濃い」宗教で、仏教は「薄い」宗教だと言ったようなことではありません。

どの宗教にも「濃い」信仰を持って宗教に対する人も居り、そこまで深く宗教にとらわれない「薄い」信仰だけを持つ人も居るということで、イスラム教でもキリスト教でもほとんどの信者は「薄い」信仰者ということです。

 

その意味では日本人は「薄い」仏教徒、兼神道家と言えそうですが、日本人の中にもいろいろな宗派で「濃い」信仰を持っている人は数多く居るわけです。

 

ただし、日本人が仏教神道など、(時にはキリスト教も)適宜利用して生活の各所に宗教を活かすようなことをしているから、「無宗教」というような判定をすることがありますが、キリスト教徒などの宗教観からすればそうなるのでしょう。

しかし、これは日本ばかりではなく中国でも仏教儒教道教の教えや儀礼をところどころ取ってチャンポン状態で信仰されているのが一般の人々の生活です。

これは東アジア社会に広く見られるもので、文化的伝統とでも言うべきものでしょう。

 

日本ではいろいろな面で儀礼というものを守るといったことが見られます。

宗教的な儀礼もありますが、その他の場面でも「茶道」「華道」「柔道」「剣道」「歌道」といった技芸などがあり、どれも「道」という名が付いています。

これらはどれも精神的な訓戒のようなものを伴っており、見方によっては宗教的儀礼と区別がつかないとも言えます。

 

実は世界の他の宗教でも、こういった儀礼的所作を守ることを重視しており、それが宗教であるとも言えます。

日本人が無宗教かどうかという問題を考えるには、こういった「茶道」「華道」などの儀礼も考慮に入れる必要があるということです。

 

世界の宗教を広く見ていくと、その差というよりは同質性に気が付きます。

どの宗教でも戒律があり、儀礼があります。

またその初期の頃には奇跡で人に信仰をうながしたという経緯があり、呪術的要素を持っています。

 

世界の主な宗教の概説がコンパクトにまとめられています。

ユダヤ教からキリスト教が生まれ、その影響下にイスラムが生まれたということはよく知られているでしょう。

その割に仲が悪いのは兄弟喧嘩でしょうか。

 

ヒンドゥー教というものは、インドの人々が信じているものすべてをまとめたようなもので、その経典というものがあるわけではなく、多くのものを一箇所に集めたようなものです。

カースト制というのもその宗教からできているというものではなく、並行して進化してきたようです。

 

仏教はインドで発生しましたが、インドではほとんど廃れました。それが伝わった中国や東南アジアで独自の発展を遂げました。

インドの人々の見方(家を捨てて出家、輪廻転生など)は中国の人々の感覚からは受け入れがたいものであったようで、その辺のところは適当に取捨選択して中国流の仏教に再編されたようです。

日本に伝わったものも中国流の仏教ですが、それがさらに日本では独自の発展を遂げます。

 

中で一つ面白い話は、禅というものはもともとのインド仏教でも瞑想の修行として存在していたものですが、中国に入ってからは老荘思想以来の中国神秘思想と合体してしまいました。

もともとインドでは理屈っぽいインド人の煩瑣なロジックがあったのですが、中国人はそういったものには興味がありませんでした。

そのために、禅でも「悟り」を「阿吽の呼吸で伝える」ことになってしまいました。

座って瞑想することでは似ていても、その本質はまったく変化してしまったようです。

 

日本でも大きく見れば仏教神道が並立して信じられているように見えます。

その中でも神道が日本古来の宗教でそこに仏教が入ってきたと思われていますが、実は神道の形式にも中国流のものが多くあり、決して日本古来の信仰がそのまま続いているわけではないようです。

さらに古くから神仏混淆ということが行われており、現在の神道というものは仏教の影響がかなり大きいようです。

 

インドなどでも多神教と言われていますが、その中身はさまざまで、ヴィシュヌやシバなどの神を信仰する人たちはその神を一神教的に信仰している場合もあり、一神教徒の混合なので多神教と言うべき場合もあるようです。

多くの神々を同時に信仰しているということだけとは言えないそうです。

 

宗教というもの、誰もが一応の知識は持っておくべきものかもしれません。