爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「脱成長のとき 人間らしい時間をとりもどすために」セルジュ・ラトゥーシュ、ディティエ・アルバシェス著

脱成長ということを主張しているラトゥーシュは以前に一冊読んだことがありますが、それはかなり難解なものでした。

sohujojo.hatenablog.com

今回の本は教え子のアルバシェスと共著となっているためか、かなり分かりやすく書かれているように感じます。(実際はアルバシェスがほとんど書いたのかも)

さらに訳者の佐藤直樹さん、佐藤薫さんがかなり注釈を挿入しているとのことですので、脱成長ということについてあまり馴染みのない人でも理解しやすいかもしれません。

ただし、心の底から現在の成長社会に毒されている人には拒絶反応が出てしまうでしょうが。

 

脱成長というものが避けられないのは明らかです。資源も環境も今のような成長が必須という世界ではあっという間に限界に達します。

1974年にフランスの大統領選挙に出馬した農学者のルネ・デユモンは「もしも現在の成長率が続くなら21世紀の終わりには文明は崩壊する」と予言したそうです。

他にも多くの科学者たちが成長を求める社会の存続は不可能と主張しています。

 

脱成長という言葉を初めて使ったのはルーマニアの科学者ニコラス・ジョルジェスク・レーゲンだそうです。

しかし、それを基に政治活動化されたのは2002年になってからのことでした。

 

成長は経済活動だけでなく人口も増やしていくことを含みます。

しかし、老人の面倒を見るためにそれ以上に若い人が存在しなければならないとして人口増を続けていけば50年で一つの国の人口が10倍にもならなければいけないことになります。そんな将来は来るはずもありません。

 

資本主義は成長を遂げ、さらにその成長を維持することが義務付けられているようです。

成長率が少し落ちただけで社会は大混乱に陥ります。しかし、これが成り立つのは「北の国」(南北問題参照:先進国)だけです。「南の国」(低開発国)や自然というものを収奪して出来上がっている「北の国」だけに通用する論理でした。

 

しかし、資源や環境への悪影響以上に、現代では金融資本主義の暴走から経済自体が危険な領域に達しています。

やがて成長は不可能となり崩壊するでしょうが、このまま崩壊に向かえば戦争や飢饉などの破壊的なシナリオをたどるでしょう。それを防ぐためにも「選択した脱成長」を目指さなければならないということです。

 

2004年にすでに地球の生態系の再生可能量を40%越えてしまったそうです。

地球全体の光合成で得られる物質量の10万年分をわずか1年で使っています。

エコロジカル・フットプリント(人間1人が生活するために必要な土地の面積)はアメリカ人では9.6haです。フランス人は5.3haですが、アジア人やアフリカ人は1.4haに過ぎません。

エコロジカルフットプリントの急激な上昇が始まったのは1960年代です。生活を原始時代に戻さなければならないのかという反論がよく聞かれますが、それほど極端ではなくまず1960年の生活を目指せばよいということです。

 

脱成長というものが必要なのは間違いないようです。しかし、どの程度のレベルまで減らすかということは非常に難しいことのように思います。

訳者のお二人もその点は原著にすべて同意ということではないようです。長い訳者あとがきが付いていますが、そこには「ラトゥーシュさん自身は世界中を飛行機で飛び回って講演活動などをしているけれど脱成長しているのか」と疑問を呈していました。

 

脱成長(ダウンシフト)のとき: 人間らしい時間をとりもどすために

脱成長(ダウンシフト)のとき: 人間らしい時間をとりもどすために