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爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「民族幻想論」スチュアート・ヘンリ著

著者はアメリカ生まれながら日本の大学を卒業しそのまま日本で研究活動をしている民俗学者です。

日本に帰化していますので本名は別に漢字名を持っているそうですが、研究の都合上元の名前で活動しているそうです。

 

東西冷戦が終結したらかえって各地で問題が起きやすくなったようですが、そこでは民族問題というものが大きく関わっています。また、各地で人種差別の事件も続発しています。

しかし、「民族」とか「人種」とか、分かっているようではっきりしないもののようです。

これは「単一民族」幻想を持つものも多い日本人だけでなく、(まあ民族とか人種とかいった話には特に弱いのが日本人でしょうが)世界的にも誤解や曲解がはびこっているのが事実です。

 

日本が「単一民族国家」であるということは、公式には否定されていますが日本政府・政治家・官僚などは「単一民族国家にきわめて近い国」という認識が普通のようです。

これは政治家ばかりでなく一般の国民の間でも普通の感覚になっています。

そのためか、「民族」「人種」というものが何を指すかという点についても研究者の間でもまったく統一した見解のないものとなっています。

実は「人種」というものはそれほどはっきりとした科学的な根拠があって言われているものではないようです。

そしてそれは歴史的にも新しいもので16世紀頃になってようやく確立してきました。

その当時の極めて不十分な「科学的根拠」により人種の定義や区別が行われてしまい、現在から見ると相当おかしなものが広まりました。

人種間で知能や能力の差があるという説も広まりました。こういったものは現在ではすべて否定されていますが、それでも一度科学の仮面が付けられるとなかなかその影響が消えないようです。

 

日本のマスメディアに登場する言葉として「◯◯族」「◯◯部族」「◯◯民族」「◯◯人」といったものがあります。

その例としては、マオリ族フツ族、プエブロ族、ツチ部族、ケルト民族、といったものですが、「族」「部族」を使うのはアフリカ・アジア・アメリカ原住民に対してのものであるのに対し、「民族」はヨーロッパ、中東に使われているそうです。

このあたりに「文明度」を尺度とした使い分けがされている疑いがあります。

 

実際に、著者が勤務先の大学で学生相手に調査した「部族」という言葉が持つ印象はどのようなものかというものがあります。

それは女子大の歴史関係学科という学生ですが、やはり「原始・未開・野蛮」といった語感で捉えていたようです。

現代日本語の「部族」という言葉は、実は明治時代に登場しました。英語の「tribe」という言葉の訳語として当てられたものです。

元々は中国五代の頃の史書に表れており、未開の人々の集団を呼ぶ言葉でした。

これを英語のトライブの訳語としたのは、その英語の言葉自体にそのようなネガティブな意味が込められていたからです。

 

ラテン語の元の形の「トリブス」という単語にはそのような意味は無かったのですが、イギリスで15世紀頃から「非文明の民」という意味で使われるようになります。

最初に使われたのはアイルランド人に対してですが、その後新大陸のインディアンやアフリカ・オーストラリアの原住民に対しても使われるようになりその意味が定着しました。

彼らは「部族」として表現され侮蔑されましたが、実際はその文明化や政治的独立を取り去ったのもヨーロッパ人たちです。その植民地主義のご都合で様々な部族、民族を作り出してしまいました。

 

民族に対してその名称の問題も大きなものです。

かつて「エスキモー」と呼ばれた人々はそれが差別語だからということで「イヌイット」と呼ばれるようになりました。エスキモーというのは「生肉を食べる人」という意味のインディアン諸民族の言葉からきているからだということです。

しかし「イヌイト」というのはエスキモーと呼ばれていた人々の中の一集団に過ぎないということです。他にも「アリュート」「ユピック」という人々がおり、彼らは決して「イヌイット」ではないのですが、そういった点を問題視する人はおらず、エスキモー=イヌイットという置き換えが可能としてしまいました。

 

アフリカの南部に住む人々の中に「ブッシュマン」と呼ばれた人々がいますが、彼らの呼称「ブッシュマン」も差別語だから言い換えるとして「サン」と呼んだそうです。

しかし、「サン」という言葉も彼らが自称したものではなく、近隣の牧畜民が彼らを指して呼んだ呼称で「賤民」とか「ろくでなし」という意味だったそうで、わざわざ蔑称に変えたということになりました。

 

やはり民族の呼称というものは自分たちがどう言っているか、自称を原則とすべきものです。しかし、民族の範囲が多岐にわたり内部でも別の呼称を使っている集団が多いということもあり、一筋縄ではいかないもののようです。

 

民族というものがある程度は実態があるのは間違いないことのようですが、それでは「人種」はどうでしょうか。

民族・国民と「人種」を混同して使ってしまう例が多数見られます。

新聞報道や書籍などで「人種」として使われていた例には次のようなものがあります。

ヒスパニック、中国人、欧米人種、ラテン人種、インド人、(インド人もアジア人もなどという用法で)、イスラム教徒、アジア系

このような言葉は実は「人種」に当てはまる例ではないのです。

また、「白人」「黒人」という言い方で人種を表現されます。(しかし日本では「黄色人種(黃人という言い方は絶対にしない)」という使い方は避けられるようです)

 

人種は「遺伝的に決定される身体的な特徴が共通するグループ」

民族は「同じ言語を話し、同じ文化・生活習慣を持ち、共通の起源と歴史を持つと信じている集団」

国民は「ある国に属しその国の国籍を持つ人々」

というのがその定義です。

日本の場合これがすべて共通のように認識している人が多いためにこの区別があいまいになったようです。

 

人種が生物学上の種であるかどうかということは昔から問題となってきました。

しかし、現在では人類はすべて同一の種であるということが確認されています。

しかし、未練が残る人々は「亜種」ではないかということを主張しますが、その可能性も低いようです。

遺伝学の成果から見れば多くのグループ分けは可能ですが、その差は小さく別種、別亜種とすべき理由はなさそうです。

 

しかし、人種というものが確固たる区分が可能なものであり、人種によって能力の差があるという観念を持つ人はまだ相当な割合に上り、もちろんそれはヨーロッパの白人に多いようです。

 

違いがあるのは間違いないが、それをことさら言い立てるのはやはり間違いなのでしょう。