爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「これならわかる台湾の歴史Q&A」三橋広夫著

日頃から「各国の歴史を理解しなければその国の人々と話もできない」と考えている自分ですが、台湾の歴史というものもあまり知らなかったことをこの本を読んで考えさせられてしまいました。

熊本は台湾の南部高雄との間に定期航空路線を開設していることもあり、交流もあるのですが、お恥ずかしい次第です。

 

台湾には多くの民族の人々が住んでいます。

先住民は人口は2%ほどですが、中国人が入ってくるはるかに以前からアミ人・ブヌン人・パイワン人などの人々が居ます。

中国人にも、外省人と言われる、国共内戦で敗れた蒋介石が台湾に逃れて国民党政権を樹立した際にともに中国から移住してきた人々が居ます。

また、本省人と言われるのはそれ以前から台湾に居住している人たちで、そのなかにも客家系とホーロー系という区別があります。

 

台湾は氷河期には大陸と陸続きでした。そのために東南アジア方面からやってきた人が住んでいたそうです。しかし、16000年ほど前から海面が上昇し現在の形となりました。

 

その後は人が住んでいたもののあまり歴史には描かれていない時代が続きました。

 

16世紀になりヨーロッパからポルトガルやオランダ人が進出してきました。

オランダの東インド会社台南市にゼーランディア城という本拠地を築きました。

その後、中国人と日本人の間に産まれた鄭成功が中国で明が滅び清が起こった際に清に反発して台湾に向かいオランダ人を追放して本拠地として清に抵抗しました。

その後は清による台湾統治が続き、中国からの移民も増えて漢人社会ができてきたそうです。

 

日清戦争の後、下関条約により台湾と澎湖諸島は日本に割譲されましたが、現地の人々に取っては寝耳に水の事態で、反対運動も起きました。そのために日本軍は多数の兵力を投入して武力鎮圧をしました。

それから太平洋戦争終了までは日本の統治が続きました。

 

1974年にインドネシアモロタイ島で見つかった旧日本兵、中村輝夫さんは実は台湾の先住民で本名はスニヨンという人でした。このように、台湾の人々も戦争に駆り出され、戦死したりまた戦犯として刑死したという人が多く居ました。

また、スニヨンさんには未払い給与と帰還手当の計6万8000円が支払われただけでした。そのすぐ前に発見された横井庄一小野田寛郎にはそれぞれ1千万円、2千万円が支払われたそうです。

 

日本の敗戦により、台湾は中国国民党政府の統治下に入りました。

しかし、新たに中国からやってきた軍人や警官の横暴な行為は日本時代よりさらにひどいものでした。

それに対して、1947年2月には2.28事件と呼ばれる抗議運動と弾圧がありました。2万人以上が犠牲になったそうです。

その後、国民党と共産党の内戦が激化し、1949年には中国本土は共産党の支配下に入りました。国民政府は台湾に逃れます。

600万人が暮らしていた台湾に国民政府の役人や軍隊・難民など150万人もの人々がやってきました。

当初、アメリカは国民政府を擁護するつもりはなく、事態を傍観する姿勢だったのですが、1950年に朝鮮戦争が勃発したために台湾を影響下に置くという政策に転換しました。

そのために巨額の援助を国民政府に行なうようになりました。

 

その後、台湾ではずっと戒厳令が続く状態であり、国民党以外の政党も認められない状態が続きました。

しかし、1972年のニクソンの北京訪問に続き、アメリカは中国共産党との国交を回復、そのために台湾の国民政府とは国交断交となります。

この変化により台湾政府も民主化に動くこととなり、国民党以外の政党の設立が許され、民主進歩党李登輝が総統となり大きく動き出すこととなりました。

 

台湾と言うと対日感情も良好ということが良く言われますが、本書を読み出した最初は植民地時代の抗日運動や、日本の圧政などが描かれ、とても対日感情を良くするようなことにはつながりそうもないと感じたのですが、その後の対中国戦争状態の間の国民党政府の圧政ぶりを見ると、「日本の方がまだましだった」と取られたのではと感じました。

何はともあれ、現在から少しでも悪くしないように努力していくべきでしょう。

まだまだ知らないことはあるものだ。