爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

小学校英語正式教科化に教員の半数は反対

政府は小学校英語を必修化とするつもりのようですが、教員の多数は反対という意見であるという記事が毎日新聞に出ていました。

 

http://mainichi.jp/articles/20160918/k00/00m/040/057000c

 

その理由は教員の負担強化になるとか、指導能力とかいったものですが、ここであまり取り上げられていない理由について考えたいと思います。

 

英語を使えるようにという要請は商行為上の都合や科学技術討論のためといった実務の点から言われているのがほとんどであると思います。

 

しかし、英語に限らず言語の重要な役目は深い心理・感情を伝えるということを忘れてはいけません。

哲学の思考の手段としての言語の重要性などということを持ち出すまでもなく、例えば文学作品の「乗り物」としての言語は重要であることは言うまでもないでしょう。

 

原始的な言語の段階ではそのような深い意味合いをもたせた言語表現というのも未発達だったのでしょうが、歴史の古い言語では昔から文芸作品を産み出してきています。

日本では万葉集記紀などの時代にはその役割をすでに開始していると言えるでしょう。

 

世界共通言語か何か知りませんが、英語にその役割を持たせるつもりなのでしょうか。

英語で商取引ができるビジネスマンであっても、それを使って詩や小説を書ける人がどれほど存在するでしょうか。

あくまでも母語である日本語にそういった役割は任せておいて、仕事上の手段としてだけ英語を使えということなのでしょうか。

 

現在の教育体制でも日本語を使う能力は衰え続けています。これにさらに英語正式教科化で授業時間数を割いていったらどうなるでしょう。

高度な文芸作品などといったものはもはや教育の場で取り上げることはないということでしょうか。

愚民政策も極まったというべきでしょう。

 

(普段は文芸作品などあまり読まない自分ですが、柄にもなく書いてしまいました)