黒曜石というと石器時代から縄文時代までの間に石器の貴重な原材料として使われていた石ですが、その優れた品質のものは長野県の和田峠や神津島、隠岐の島など限られたところから採られたものです。
そしてそれがかなり遠く離れたところまで運ばれて使われていたということが科学的な分析により明らかになっています。
本書はその黒曜石について長野県の浅間縄文ミュージアムで学芸員を務められている堤さんが様々な観点から詳しく解説をしています。
黒曜石は非常に鋭い切れ味の細石刃というものとして使われており、繰り返し使われる大きな石器にはならなかったようです。そういった用途にはヨーロッパのフリントストーンや東北地方の硬質頁岩とい石の方が向いていたようです。
しかし、細かい刃の切れ味では非常に優れていたのが黒曜石で、海外では現在でも手術のナイフとして使う外科医がいるそうです。
その黒曜石を多く産したのが長野県の高原で、和田峠や八ヶ岳麦草峠にその採掘場の跡が残っています。
戦後間もない昭和24年に群馬県赤城南麓で日本で初めて旧石器時代の遺跡を発見した相沢忠洋氏の業績は有名なものですが、その岩宿遺跡で見つけられたのも黒曜石の尖頭器だったそうです。
各地で見つけられた黒曜石の石器はいろいろと研究されてきましたが、黒曜石に含まれる晶子と呼ばれる成分の形態が産地によって異なることが分かり、それで出土地と産地の関係がまとめられるようになりました。
またその後も水和層年代測定、放射化分析、蛍光X線分析など様々な科学分析法の発達により様々な研究が実施されています。
和田峠産の黒曜石が遠く離れたところから出土するのも驚きですが、伊豆諸島神津島のものも品質が優れていたようで、3万年前の山梨県の遺跡からも出土しています。
その時代に海を越えて神津島に採掘に行ったということも驚きですが、それを管理していた社会体制というものも存在していたと考えられます。
それらを考えると、黒曜石が使われだした3万年前から後期旧石器時代が始まったものと言えるようです。
縄文時代はまだ戦争はなかったものと考えられていますが、実際は黒曜石の矢じりやナイフで殺害されたと考えられる遺体が見られるようです。どのような争いがあったのかは分かりませんが、何もない平和な時代というものはなかったということでしょう。
そのような黒曜石ですが、弥生時代になるとさすがに鉄器などに変わってしまい使われなくなりました。
しかし、弥生時代初期の戦争の道具としては使われたようです。
おそらくこれまでにも石器として使われていた黒曜石を見たことはあるのでしょうが、明確な印象はありませんでした。今度よく見てみたいものです。