「永続敗戦論」といえば2013年に出版されて話題になったという、白井聡さんの著書で、第2次大戦で敗戦した結果の対米従属が永続的なものとなっているという状況を述べたものですが、本書はその本の問題提起に対し著者の小川さんがその状態をなんとしても変える必要があるとして、真の民主主義をもたらすために何をすべきかということを論じようとしたものです。
したがって、直接「永続敗戦論」という本を論じたものではなく、あくまでも著者自らが以前から日本の民主主義というものに対して持ち続けていた問題意識を展開したものです。
これを「永続敗戦論」というある程度話題になった本の題名を借りたというのは、この国の民主主義の立て直しに対してはもはや手段を選んではいられないという著者の大きな危機感があります。
今の日本はどんどんと肥大化する国家主義に日に日にむしばまれていると言えます。それに対抗するために何でもするというのが本書の動機となっています。
戦後初の本格的政権交代の挫折と、大規模な自然災害という国家的な危機に乗じて戦後最悪の国家主義が蔓延しつつあります。
さすがに集団的自衛権解釈変更の時にはデモを行うという抵抗がありました。しかしそれは小規模なもので空しく消えていきました。
国民に経済再生という甘い汁を吸わせている隙に(著者はこれを”存分に”としていますが、それは私の見たところとは違う点ですが)国家権力をほしいままにしています。
しかし、それに対して国民は何の危機感もなく傍観を装っています。
多くの諸外国ではデモを繰り返して粘り強く行動しているにも関わらず。
こういった事態は今に始まったことではありません。日本人は真の意味で政治に参加したことなどないし、国家に抵抗したこともありません。
ここに、日本の民主主義は大きな病を患っていると著者は見ています。
それは一つは古くからある日本の歴史風土に起因する原因、そして一つはグローバル化というあらなた原因です。
白井聡の永続敗戦という言葉に寄せて言うならば、アメリカによって戦後日本の民主主義の病というものが決定づけられた時、永続敗戦が確定的なものとなりそれが続く限り真の民主主義はあり得ず異質の天皇民主主義が存続するのが日本の現実です。
政治参加というものが他人事になってしまっている現状ですが、そもそも「政治参加」とは何なのか。
これについては元東大政治学教授で、現在は熊本県知事となっている蒲島郁夫(テレビでしょっちゅう見ます)の書いた「政治参加」という1988年の本です。
いまだにこれを越える研究書は出ていないという著者の評価です。
この中で蒲島は政治参加の定義を「政府の政策決定に影響を与えるべく意図された一般市民の活動」としています。
本来政治とは利害対立の解決の場なのですが、参加しないかぎりパイの分け方は偏ったままになります。
日本ではとりわけ、都市部の若年者層の政治参加が低調ですが、それを何とか改善しなければ民主主義の未来はありません。
特に問題なのは民主主義のための教育が日本ではまったく行われていないことです。
米国で行われているものは「政治教育」ではありません。自分の意見を表明する訓練というものを行なっていることがそのまま民主主義教育につながります。
日本の教育では自らの意見を述べ議論して解決するということをほとんど実施しません。
教師が模範解答を示しそれを生徒に覚えさせるだけの教育がほとんどです。
このままでは政治参加をしなければという若者の意思すら育たないでしょう。
政治に関してよく考え行動する「賢い市民」になるために、著者が提案するのはさほど突飛なものではありません。
「熟議」を行なうということです。
皆で議論して決めていこうと言うことなのですが、これと人々の政治的平等が組み合わさったものが「熟議民主主義」となります。いわば徹底的に討議できる条件が整い、かるそれを元に人々が政治に参加できるというものです。
従来の民主主義はいわば利益に基づいた民主主義モデルであって、そこでは自己利益の追求のみがなされました。ジェイムズ・フィシュキンが唱えているものです。
この本は平易な言葉で記述されているのですが、その割に判りにくいところが所々にあるものでした。現実と理想との乖離が大きすぎるのかもしれませんが、部分的にでも実施されているモデルがあればそれを示してくれた方が判りやすかったかもしれません。