爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「”歴史認識”とは何か」大沼保昭著 江川紹子聞き手 その2

歴史認識」とは何か という大沼保昭さんの本の読書記録の2、第4章以降の部分についてです。

 

第4章 慰安婦問題と新たな状況

 戦時中の問題は他にも多数あるのに、特に1990年代以降は慰安婦問題が国際的にも注目されています。

問題があるということはそれ以前からも判っていたのですが、80年代から世界的に女性の人権問題が重視されるようになったということも関係します。

また、90年代初頭に旧ユーゴスラビアで内戦が起こり、その中で女性に対する集団レイプ事件が行われたことが大問題となりました。そのために過去の問題だったはずの慰安婦問題もまた取り上げられるようになったということもあります。

 

慰安婦とした女性は韓国ばかりでなく、中国・台湾・フィリピン・インドネシア・オランダなどの多数の国に及んでいます。しかし現在ではほぼ日韓問題に化してしまっています。

1996年に「アジア女性基金」を設立し、さらに女性に対しての医療費援助制度、首相からのお詫びの手紙という対処をしました。

しかし、それを受け入れた人も居た一方、特に韓国では強硬な支援団体が国としての謝罪と法的な責任でなければ受け入れないという態度を取ったために被害者も補償を受けられないという事態になりました。

これに対して日本側も反発する勢力が増加してしまい、日韓対立が激化してしまいます。

慰安婦問題の核心として強制連行があったかどうかばかりが強調される場合が多いようですが、実は韓国以外ではそのような事例があった可能性が強いようです。オランダ人女性を慰安婦としたのなども明らかに強制されていますし、フィリピン人女性も強姦したまま連れ去るということがあったようです。

しかし、韓国での場合はそのような強制はごく稀であり、実際は民間業者が甘言を弄して「看護婦やお手伝いさんとして働く」などと称して連れ出して慰安婦としたということが多かったようです。

これも「自由意志で参加した」とは到底言えない状況でしょう。

 

韓国側の支援団体が「法的責任」を取ることを強く主張しており、「アジア女性基金」のような「道義的責任」では済まないとしていることに対しては、著者は「道義的責任」が「法的責任」より弱いとしているのはまったくの誤りとしています。

真に反省し「道義的に」謝罪する方が、「法的に」無理矢理賠償させられるよりはるかに強い責任の取り方ではないかと言うことです。

なお、ドイツが法的責任を認めたというのも誤解のようで、ドイツもあくまでも「道義的責任」を果たしただけのようです。

 

第5章 21世紀世界と「歴史認識

 世界的に見た「戦争観」と「植民地観」は19世紀までと現在では大きく変わっています。

それまでは国と国の戦争というものも倫理的に問題があるものではなく、強国が海外の地域を植民地とすることも問題なしでした。

しかし、第1次大戦であまりにも多くの犠牲者を出すようになり、戦争というもの自体が違法なものではないかという価値観が現れます。

また第1次大戦後の講和会議でも「民族自決」という原則が謳われるようになり、アジアの植民地の人々も期待を寄せたのですが、その時は民族自決が適用されたのはヨーロッパ内だけに留まりました。

アジア人は落胆はしたのですが、それがその後の植民地解放にもつながる意識を高めました。

 

しかし、世界がその風潮に踏み出していたまさにその時に、植民地拡大へと向かってしまったのは日本の世界潮流への無知をさらけ出したことでした。

世界的には徐々に人種差別からも抜けだそうとしつつあるときに、植民地人やアジアの人々に対する人種差別を強化するという時代錯誤に陥ってしまいました。

 

第2次大戦全体を見ると、国際法違反の戦時行為が非常に多かった戦争でした。

それが戦後の国際刑事裁判所の活動にもつながるのですが、これに対して批判をする勢力も多くなっており、新たな植民地政策ではないかと言われても居ます。

 

日本は否応なしに歴史認識を突きつけられましたが、戦勝国側は結局、帝国主義植民地主義を精算しないまま現在まで来ています。

これらの国の「歴史認識」の方がよほど糾弾されるべきものが多いのですが、それを追求する動きは弱いようです。

 

中国も決して問題が無いわけではありません。欧米もそうですが、もしもそれらの国々が自分たちのことは棚に上げて日本を責めていると感じたら「それではあなたの国は自国の過去の負の側面にどう向い合っているのですか」と聞いても良いというのが著者の意見です。

ただし、これはあくまでもそれが「自己や日本の正当化」のためであってはならないということです。

 

歴史認識」という問題は非常に多くの経緯と関係者を含み、それを知らずに軽薄な発言などはとてもできないもののようです。

それでも少しずつでも間違いは正すということは必要になることでしょう。