爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「創氏改名 日本の朝鮮支配の中で」水野直樹著

第二次大戦までの歴史の中で、日本が植民地としていた朝鮮半島と台湾で現地の人々に日本風の名前を付けさせたという創氏改名ということがあったということは、おそらく多くの人が知っては居るでしょうが詳しいことはほとんどわからないままでしょう。

 

実施されたのが太平洋戦争に突入する直前で、朝鮮半島で1940年(昭和15年)、それからわずか5年で日本の敗戦となり、瞬く間に全てが破棄されました。

韓国側でもこのような事実をまともに扱う気もなく、日本側でも歴史の一つとして記録するという動きもないまま忘れ去られようとしています。

 

そのためか、「法律上は強制では無かった」とか、「末端の機関が強制した場合もあった」とか、はなはだしい場合は2003年の当時自民党政調会長だった麻生太郎の「朝鮮人が名字をくれといったからやった」などという発言も飛び出す始末です。

 

こういった事態を整理していこうということもあり、著者が様々な資料からまとめたものです。

 

基本的な事実は次のとおりです。

 

1940年2月から6ヶ月以内に氏を設定し届けることを義務とする。

届けがない場合は戸主の姓を氏とする。

名を日本人風に変える場合は裁判所の許可を受けた後に改める。

 

つまり、氏の設定は義務であったものの、名の変更は任意であり許可を受けるという規定でした。

 

その結果、40年8月までに氏を届け出たのは朝鮮人戸数にたいし80%、名を改めたのは10%でした。

これらの届け出に強制されたものはあったのかなど、実態は韓国でも研究が進んでいません。ようやく最近になって掘り起こされるものも出てきているようです。

 

日本人は氏と姓の違いというものをあまり認識していませんが、姓というものは元々の一族の共通のものであり、日本の氏のように頻繁に変えるということはありません。

そのため、一族の出身地(本貫)と姓とで表す朝鮮の風習は一族の連帯感の強い基盤となっています。

日本が植民地支配を強めていく上ではその連帯感が邪魔であったということがこの理由ともなっています。

家ごとの名(氏)を付けさせることで一族支配を弱め、天皇制に組み込むというのが目的です。

したがって、家独自の氏とすることという日本側からの暗黙の指示があったのですが、朝鮮側はやはり一族単位で氏も変えようと言う動きが強かったようです。

 

なお、今でも韓国では夫婦別姓ですが、これも一族の連帯重視というところから来ている風習です。これも創氏改名の際は日本風に夫婦同姓にさせようとしたわけです。

これに対しても創氏改名ということと同じように特に女性の反発を受けたようです。

家族というものの概念を根本から覆すようなものですので、そう簡単なものではなかったのでしょう。

 

実施にあたっては朝鮮人の中でも政府の官吏などになっている人から率先して行なうよう強制されました。

これを嫌って辞任した人もいたようですが、仕方なく従ったようです。

 

ただし、これらの制度は日本全体として支持されたというわけではないようです。

日本政府の朝鮮総督府が主導して実施していったのですが、日本内地からはこれに反対する動きも強くありました。

それは主に朝鮮人に対する頑迷な差別意識から生まれていたもので、日本内地の氏名と見分けがつかなくなるのを嫌うというものでした。

「内鮮一体」を進めて朝鮮人を徴兵、徴用して戦争に使おうと言う政権側と、朝鮮人が見分けがつかなくなるのを嫌うという内地人の感情、どちらも似たり寄ったりにも感じますが、そのようなところから完全に日本人的な氏名を付けることは許さないということにもなっていきます。

 

その後、日本敗戦により創氏改名された戸籍も抹消されてしまいましたが、その影響として日本に徴用され亡くなった人たちの記録が混乱してしまったり、植民地時代の学校の記録が残っていても内容が分からなくなったということがあるようです。

 

植民地政策自体が誤ったものであるのは言うまでもないのですが、実際にあったことですから冷静に記録をしていくというわけにはいかないものでしょうか。