爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「凡庸という悪魔 21世紀の全体主義」藤井聡著

著者は土木工学を専攻し都市社会工学の大学教授を勤めながら、公共政策に関する社会科学全般に興味の対象を広げていったという方です。

そのため、本書も工学的なものとはまったく縁のない社会科学的な考察についてのものとなっています。

 

著者は都市工学の観点から自然災害対策の公的政策にも関わってきましたが、その過程でどの課題においても普通に考えれば小学生だろうと老人だろうと簡単に理解できるような話を全く理解せずに、一切聞く耳を持たずにただ自説を機械的に繰り返す「思考停止」した一群の人々が存在していることに悩まされてきました。

その人々のかなりの部分は知的水準も社会的地位も高いインテリ層であることにも驚かされていました。

このような人々の心理については、ハンナ・アーレントの著書に大きな示唆を受けたそうです。

 

それは、ナチズムの拡大にもつながった全体主義の蔓延に、このような「思考停止」した人々が大きく関わっていたこととも関連します。

 

そういった人々の中でも代表的な例が、ナチの幹部でユダヤ人虐殺に関わり、戦後にイスラエルに捕まって死刑にされたアイヒマンです。

アイヒマン自身はまったく小心な家庭的な男で、悪人という様相は持っていませんでした。しかし、まったく自分で考えるということをせずに、ナチの命令に盲目的に従うことで虐殺を黙々とこなしていきました。

ナチの指令に従っていたのはみなこういったドイツ人でした。彼らが思考停止して活動したことが全体主義につながっていたことになります。

 

彼らを著者は「凡庸な人々」と呼びます。彼らは決して庶民であるとは限りません。政権の中枢に近い人もおり、収入の多い人も居ます。しかし、どれもが思考停止をしており、黙々と与えられた仕事をこなしているのは同様です。

 

そして、その事自体、つまり「他者と関わる以上、凡庸さというものは罪である」と著者は結論づけています。

 

全体主義というものは、ナチスドイツだけのものではありません。ソ連や中国の共産主義もそういったものですし、現代でも随所にそのような組織は見られます。

こういったところでは、どこでも思考停止した人々により組織が維持され拡大していきます。

 

21世紀の全体主義として、著者は次のような例を挙げています。

 

いじめ全体主義 学校だけでなくあらゆる組織に蔓延するいじめというものも各自の思考停止から起き、その組織の全体主義につながります。いじめという暴力「テロル」もその性格を表します。

 

改革全体主義 とにかく「改革」すれば良いというのも思考停止から生まれます。郵政改革という政策もテロルの一種でした。「リセット願望」という庶民の俗情のはけ口から生まれたものです。

 

新自由主義全体主義 ノーベル経済学賞という著者に言わせれば「似非ノーベル賞」をお手盛りで取り合っている新自由主義経済学者たちが正当化する新自由主義全体主義と化し、おぞましい学界となっています。

「道徳」というものを失ったこの政策で世界が破綻しようとしています。

 

グローバリズム全体主義 新自由主義がもたらしたグローバリズムが世界を席巻しています。グローバリズムで短期的な利益を貪っているのが「1%」の人々です。それにより世界は戦争状態に放り込まれます。

 

このような全体主義により世界が危機に瀕しているというのは分かりますが、それが「凡庸な人々の思考停止による」とだけ言うのもちょっと飛躍し過ぎかとも感じます。

確かにみながもっと良く考えれば避けられるのかもしれませんが、だからどうすればというところも見られないようです。

 

凡庸な人々が壊そうとしている世界は救いようが無いということになるだけでしょうか。