爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「五十歳から貝原益軒になる 心と体のことわざ養生術」山崎光夫著

貝原益軒といえば養生訓とその著書名はすぐに出てきますが、読んだことのある人はまずいないでしょう。

その内容として節制を勧めるものであろうと言うことは分かるにしても、細かいことは聞いたこともありません。

 

貝原益軒は江戸時代初期の1630年に福岡の黒田藩に仕える貝原利貞の五男として産まれました。

その後、藩主黒田忠之に仕えるものの、忠之の長崎行に同行した際にその怒りを買い処罰され失職し、浪人となるという仕打ちを受けます。

しかし、忠之死後には続く藩主からは重用されて長く仕えることとなります。

 

その浪人生活の6年間に儒学、医学をはじめとして本草学、農学、地理、歴史等さまざまな学問を究めるという努力を重ねました。

藩に仕えながらも、50歳を過ぎた頃から多くの書物を著述しており、養生訓をはじめ98部247巻の執筆をしています。

中年以降は早くから致仕の願いを出していたものの、許されたのは71歳になってから、その後は旅行や著述に励み84歳で亡くなるまで現役として活躍していたそうです。

 

本書は益軒の思想について、その著書の中から日本のことわざについて取り上げている「和諺」という書物にひかれた諺にちなんでエッセイを書かれているもので、著者は放送作家、雑誌記者等を経て作家となられた山崎光夫氏です。

出版時には59歳でしょうか。やはり書名通り、50歳を過ぎなければ養生というものの意味が分かりにくいのかもしれません。

 

50歳というのは、養生訓にも書かれているように益軒が一つの区切りとして考えていたように、「50にして死するを夭(わかじに)と言う」として、それ以上が一応長生きの部類とされていました。

60歳が「下寿」80歳が「中寿」100歳が「上寿」としていました。

著者は、その生活態度を益軒にならうのは50歳からで良いと考えたようです。

まあ若いうちは無理でしょうか。

 

益軒は食事が健康の基と考えていたようです。

それを、この著者は「元祖管理栄養士」と評しています。

「命は食にあり」ということわざを引いていますが、美食・大食を諌め細かく体に良いものを挙げています。たとえば、あたたかなる物、やはらかなる物、よく熟したる物、ねばりなき物、新しきもの等々です。

悪きものは、なまもの、固いもの、くさきもの、粘るもの、あぶらおおきもの等々です。

また、身体を動かしよく歩くということも薦めており、自分でも福岡に住みながら江戸や京都、長崎へ数十回も旅行しています。かなりの健脚であったのでしょう。

そういった実績からも説得力がある著述ができたのでしょうか。

 

とはいえ、この紹介を読んだからといって貝原益軒の原著にあたってみようと言う気にはほとんどならないというのが実際です。