生物の種の滅亡が続き、生物多様性というものが失われているということが言われていますが、これについて生物学者ではあるものの、生態学や環境学が専門ではなく、ナマコの研究をしていたという、前東京工大教授の本田さんが書かれています。
そのためか、とにかく生物多様性を守りましょうといった単純な論議ではなく、そもそもなぜ生物は多様化するか、そして本当に多様性を守ったほうが良いのかといった基本的なところから論じており、それは哲学的、倫理学的な議論にもなっています。
生物多様性を含む生物学というものは、実は科学全般の中では非常に特異的な学問です。
物理学などを始めとするいわゆる科学的な科学分野では、「普遍的なもの」を扱い総合的な理論を構築していくのが科学であるという立場がありますが、生物学はそのような「普遍性」は持ちあわせていません。
もしかしたら全宇宙の中でも地球という環境の中だけで発生したかもしれないような「特殊な」生物というものをいくら調べても普遍性には至らないでしょう。
だからといって生物学が下等な科学といったことはないのですが、科学者を含めて一般にも生物学、ひいては生物多様性というものが非常に理解し難い理由となっています。
多様性とは、普遍性とは正反対の概念だということです。
人間の衣食住など生活すべてについて、生命体が関与していることが多いのですが、それには様々な生物の種類との関係が存在しています。人間の都合から言えばできるだけ多くの生物種が残存している方が有利ですが、そういった勝手な都合だけの話でもなさそうです。
しかし、このような生物多様性というものが急速に失われています。これまでの地球の歴史の中で起きていた大量絶滅と比べても急激で幅広い生物種が失われていっています。
これはほとんどが人間の活動のせいです。
しかし、そもそもは単細胞で発生した生命がこのように多様な種類になったのは、進化によるものでした。
進化することにより、元の種とは別の種となった一群の生物が現れることにより多様になっていったわけです。
生物は個々は限りある生命ですが、次々と子孫を作り出していくことにより続いていきます。生殖を行なうことによって種というものが続いていくというシステムを作り出しました。
しかし、生殖でつなげる生命というものが完全に複製されるものではなかったわけです。
DNAの複製では一定の割合でミス(変異)が発生します。これによって徐々に種というものが変わっていくことになります。
完全にミスのない複製が起きていたら全ての生物は同じものだったわけですが、実際はどの生物の一個体をとっても全く同じものは存在しません。
このような生物の本性のために生物自体の繁栄も起きたのですが、一方では種が多様化してきたとも言えるわけです。
さて、それでは現在のような生物の多様性は本当に「守る価値がある」のでしょうか。
これは難しい問題で、今の人類に必要な種があれば良いのであれば、現在よりははるかに少ない生物種だけで大丈夫でしょう。
現在の主流派の、功利主義の下ではとにかく存在する生物種はすべて守るといった内在的価値論は無力なものです。
そしてどうやら、物理学的発想は生物多様性に価値をおかないようです。
また、現在の生物多様性条約もその論拠としているのは功利主義的な考え方でしかないようです。
とはいえ、最後まで読んでもこの答えは著者により明示されていません。非常に難しい問題ですが、それでもやはり多様性は必要ということなのでしょうか。