爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「邪馬台国 魏使が歩いた道」丸山雍成著

著者は歴史学者で九州大学名誉教授ということですが、ご専門は近世交通史ということで、邪馬台国など古代史専門ではないようです。

そういった方でもやはりひきつけられるものがあるのが古代史なんでしょうか。

もちろん、歴史学者の書かれた本であるためか非常に緻密な論旨を展開されており、また他の研究者の学説も詳細に検討され、それは通俗的な邪馬台国はここにあったというものから、各地の古墳や遺跡の発掘結果まで網羅されており、説得力の強いものとなっています。

 

本書で展開されている邪馬台国論のこれまでと異なる点は、邪馬台国に実際に使わされていたはずの中国の魏からの使者はいったいどのようなルートで、どういった扱いで邪馬台国の中心部にまで至ったかということ、そして魏志倭人伝の中の描写で、邪馬台国に直接属してはいないがそれに対抗しうる「旁国」が30カ国ほど挙げてありますが、これらのおおよその位置と規模を特定しなければ邪馬台国周辺の全体像が決定しないだろうということです。

 

魏志倭人伝では邪馬台国に至る経路のうち、朝鮮半島にあった帯方郡から北九州と考えられる伊都国まではその距離と位置がある程度明確に書かれているものの、伊都国から先が方位、里程が不明確であり、あたかもぼかして書かれているように見えます。

この点が昔から邪馬台国の位置決定の議論で論点となったところであり、方角を間違えたとか、里程をわざとぼかしたとか、さらに里程は放射状であるとか、様々な論議を呼んでいるわけですが、ここで著者はこれまでとは異なる論点を提出します。

 

それは、海外からの正式使者の取り扱いという問題です。

邪馬台国がそうであったという証明は難しいのですが、その後の時代の大和朝廷や平安朝、さらには下って江戸幕府に至るまで、海外からの使者が公式の訪問をした場合、直接首都まで案内することは絶対に無かったということです。

その後の時代では現在の太宰府や博多に置かれた使者滞在用の公館に使者を留め、急使を首都に派遣し使者の取り扱いを決定させ、その帰還を待ってから迎えの担当者と共に首都に案内するというのが一貫した方針でした。

 

邪馬台国の場合もそうであったと仮定すれば倭人伝の記述も一気に解決します。

伊都国に至った魏の使者はそこで邪馬台国の対外担当官に来訪の意図を告げます。そこで担当者は邪馬台国に急使を発しますが、それは実は陸路で直接首都に向かうわけですが、そのことは使者には教えません。

そして、迎えの邪馬台国使者がやって来るとそれとともに魏の使者は首都に向かうのですが、そのルートは「わざわざ遠回りをさせた」と推定しています。すぐに到着できる陸路ではなく、伊都国(福岡県糸島半島)から船を回して長崎を経由し有明海、または八代海に入って邪馬台国のすぐそばの港に着いたのだろうと言うことです。

このルートでは海流も激しく時間もかかったのですが、そこまでして首都を僻遠の地と思わせたかったのでしょう。

 

そして、だからこそ邪馬台国は今の熊本県有明海八代海の沿岸地方であろうと言う結論です。

これらに地には弥生時代から古墳時代にかけての遺跡も多数存在しています。その中には歴史的な関心の薄さからこれまでに調査もできないまま破壊されたものも多いようです。

さらに、球磨川を上った先には現代でも交通が難しく独立した球磨地域もあり、まさに「狗奴国」にふさわしい地域です。

狗奴国は「旁国」には当たりませんので、それは八代以北の地域が当たるのかもしれません。

 

非常に詳しく緻密な議論であり、魅力的な説でした。