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爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「真田幸村と真田丸」渡邊大門著

読書記録 歴史

まさに今年はNHK大河ドラマで扱われている真田幸村(信繁)ですが、その最も有名なエピソードは豊臣家の最後の戦いである大阪冬の陣、夏の陣で徳川を苦しめたというところでしょう。

 

しかし、その実像はどうやらかなり歪められて伝えられていたようです。

これは江戸時代の支配者層が真田に苦しめられたとされる徳川家であるために、その都合によったことと、それに反感を覚える庶民などが逆に真田を実際以上に称揚するということがあったためのようです。

 

上田城をめぐる徳川との戦いは大きなものが2回行われましたが、本書はそこはあまり多くは扱っていません。

関ヶ原の戦いの前に徳川秀忠の軍を足止めした第2次上田城の戦いは成果は上げたのですが、全体としては徳川の東軍勝利ということになり、真田昌幸と信繁は紀州九度山に幽閉されます。

そこでは収入もほとんどなく苦しい生活だったようです。

昌幸はその地で病没してしまいますが、その後大阪城をめぐる豊臣の最後の戦いが始まります。

 

この大阪の陣にまつわるイメージはステレオタイプで語られる事が多いようです。

「狸親父で腹に一物の家康」「気弱で不運な豊臣秀頼」「能力欠如ながら豊臣家を差配する大野治長」「息子秀頼を溺愛する淀殿」「優れた作戦を提唱しながらも入れられない信繁」といったものです。

しかし、信頼できる史料を見るとそうでもないようです。

 

まず、家康が一貫して豊臣を滅ぼす陰謀を巡らせ貫徹したという点は、どうもそこまでは考えていなかったようで、家康も平和的に共存できる道を探していたようです。

しかし、豊臣側は関が原後の実力差も顧みずに徳川と同等以上の立場を主張して収拾がつかなくなったようです。

不穏な情勢になると豊臣側は劣勢を回復するために多くの牢人たちを雇い入れました。そのために統制が効かなくなったこともあったのでしょう。

その中で、真田信繁が入城したという知らせを聞いた家康は衝撃を受けたという記録もありますが、そこまで評価していたとは言えないでしょう。

 

始めの軍議では信繁は近江方面へ出撃して瀬田を抑えるという策を披露するも衆議では入れられなかったと言われていますが、この話を伝えていたのも豊臣側の生き残りの者たちで正確な軍議の様子も分からないはずであり、怪しい物のようです。

ほとんど統制も取れない軍勢でそのような進出策はほぼあり得なかったでしょう。

 

冬の陣では信繁は大阪城の南側の城の外部に「真田丸」と呼ばれる要塞を築き、そこで徳川軍を苦しめたと言われています。

これも信繁が優れた策をもって作ったとされていますが、実はそれ以前から存在しはじめは後藤又兵衛が篭っていたものを引き継いだという話もあります。

これに襲いかかったのは前田家と松平忠直の軍勢で、彼らは致命的な敗北を喫したというのは間違いないようです。しかし、これも真田の策謀が優れていたというよりは、前田・松平の軍勢の将兵がまったく統制が取れておらず、配置外の者たちが我先に先陣争いをして押し寄せたために待ち構えた防御軍に討ち取られたというのが本当のところでした。

 

しかし、この苦戦が原因で徳川方も和睦を承諾することとなり、講和をしました。

そこでは二の丸・三の丸の堀を埋めることが条件となっていましたが、それを家康はごまかして本丸の堀まで埋めたのが陰謀であるということになっています。

しかし、これも講和条件としては定まっていたようで、特に騙して実施したということではないようです。

また冬の陣終結後も家康は豊臣滅亡に向けすぐに行動したというように考えられていますが、家康側はそこまで急激に再戦を考えてはいなかったそうです。しかし豊臣側の主戦派が牢人を多数城中に入れたために仕方なしに開戦に向かったということです。

 

後は通史も同様ですが、堀の無い大阪城では抗戦も難しく、有力な将兵も次々と戦死、信繁も倒れたということになります。

 

最後が悲劇的というところも、真田人気が上がった要因でしょう。そこから伝説も作られていきました。生き残り秀頼とともに薩摩に逃れたという噂もあったようですが、討ち取られ首も取られたというのは事実のようです。

 

大河ドラマの方は通俗も極まるような解釈のものになるでしょうが、まあ楽しみに見ていきましょうか。