爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「通商国家カルタゴ」栗田伸子、佐藤育子著

カルタゴというと古代ローマと地中海の覇権を争い3回のポエニ戦争を戦ったものの最後には敗れて跡形もなく壊されてしまったということはよく知られているでしょうが、その実像はあまり分かっているとは言えません。

これはカルタゴを打ち破ったローマがその記録もすべて破壊したため、詳しい文書記録が失われてしまい、当時の敵国ローマから見た記録しか残っておらず、非常に敵意の強いフィルターがかけられた見方しかできないということもあったようで、すぐ後のローマでもカルタゴの真の姿が失われたという自覚はあったようです。

そのような事情の中、ローマ史、北アフリカ史が専門のお二人が著者としてカルタゴ、そしてその母体となったフェニキアについて、その興亡を書かれています。

 

カルタゴという北アフリカの通商国家が誕生し、繁栄したのは紀元前9世紀頃からローマに滅ぼされる紀元前2世紀までですが、その前身としてまずフェニキアというものから語られています。

 

エジプトとメソポタミアの大国の周辺に位置していた中東の地中海沿岸の現在ではシリアやレバノンとなっている地方にはイスラエル人やペリシテ人といった人々が住んでいました。

その後当時カナン人と呼ばれていた人々がフェニキア人として海での通商で活躍するようになります。

ちょうどギリシア本土やクレタ島を本拠として海の通商で栄えていたミケーネ人が没落したためにその空白に進出できたようです。

それまでの青銅器時代のカナン人から鉄器時代フェニキア人として変貌を遂げ、さらに海を自由に往来し通商を行う海の民へと進化しました。

また彼らはそれまでの象形文字を改良しアルファベットの原型のフェニキア文字を作り出しました。後世への大きな影響を与えたことになります。

 

フェニキアの諸都市の中でも強力であったテュロスについてはちょうどイスラエルのソロモン王の時代とも重なり旧約聖書にその記録が残っています。ヒラム王の娘はソロモン王の後宮にも入っていたそうです。

地中海交易はその当時はフェニキアの独占でしたが、紅海からアラビア海に入ることはできずイスラエルとの友好が必要だったようです。

フェニキアの交易品としては銀などの金属をオリエントに運ぶという性格が強かったようです。それは地中海西部のイベリア半島などで産出されており、その対価として持参する工芸品の生産も発達しました。

しかし、アッシリアからアケメネス朝ペルシアへと大国の力が増すとフェニキアにもその支配が及び、さらにフェニキア本国は前4世紀のマケドニアアレクサンドロスの侵攻により息の根を止められます。

 

フェニキア人の地中海交易の拠点としてカルタゴは紀元前9世紀頃に作られました。

伝説ではフェニキアでの政争に敗れた王族の女性エリッサが逃れてきて住み着いたのがカルタゴの地だったそうです。現地の人々に牛の皮1枚分の土地を貸してくれるように交渉し、実際には牛の皮を細い紐状に伸ばして広い土地を占有しました。

初期にはフェニキア人の植民都市の一つでしかなかったのですが、その後力をつけていき、紀元前6世紀には本国を凌いで地中海交易の覇権を握ります。本国とは異なり強力な軍事力を使っての交易であったようです。

その当時はギリシア人が最強のライバルであったようで、数々の闘争が行われました。

ローマはまだイタリアの中だけで留まっている小国に過ぎなかったのですが、ローマの記録にはその頃にカルタゴとの間で結ばれた条約が残っています。まだかなりの力の差が見られる不平等条約だったようです。

 

フェニキアカルタゴが地中海交易を支配していた当時はまだ貨幣というものが出現する前でした。そのために交易は物々交換で行われていたのですが、その交換用としてカルタゴでも陶器や工芸製品の制作は発達していきました。

カルタゴの宗教はフェニキア時代から継続してオリエント期限のバアルとタニトを崇めるものでした。カルタゴの人名でバルとかバアルというものはバアル神にちなむもので、ハンニバルという名もその一つであり、ポエニ戦争で活躍したハンニバル以外にも多くの同名の人物が現れています。

ローマ人の記録によく書かれているように、宗教行事で幼児を生け贄としたというのは実際に存在した事実のようです。

 

しかし、さらに発展してきたローマとは決戦が避けられないものでした。紀元前3世紀からの3回の戦争はローマの側から見た物語が有名ですのが、やはり成長してきたローマと衰退しつつあったカルタゴとの勢いの差だったのかもしれません。

カルタゴが市民兵も少しはあったものの、大半の兵はアフリカ人やイベリア人の傭兵であったのも弱点だったのかもしれません。

しかし、ハンニバルの活躍でローマをあと一歩のところまで追い詰めた第2次ポエニ戦役だけでなく、他にもあわやという場面はあったものの、それを掴めなかったカルタゴは結局は最終的な敗戦を迎えました。

その後はフェニキア人商人の活動も消え去りローマの時代になっていきます。

 

古代の地中海というものがギリシアとローマのものであったというのは大半の時代では間違いないことでしょうが、そのほかにもフェニキアカルタゴの時代があったということは忘れてはいけないことなのかもしれません。