東日本大震災の時の福島第1原発事故による放射能汚染は大きな問題でしたが、それに対する対応など大混乱を極めていました。
放射能汚染というものについての知識が専門的な分野でも欠けていたのもその混乱の一因だったようでした。
それについて、東大農学部の研究者たちが様々な取り組みをしていたのですが、そこで得られた知識について放射線植物生理学がご専門の中西教授が代表してまとめたのがこの本です。
したがってその内容には多くの人々の成果が含まれています。除染といった問題にもこれらの成果を含めて考えていくべきでしょう。
本書の構成はまず、農業の基礎となるべき「土壌」というものについての解説から始まり、さらに「放射能」というものの基本的な説明もされています。
また実際の放射能の分析方法についても基本的なものが示されており、放射能汚染が農業に与えた影響というものの概略を知ることができます。
次に、汚染の実態の調査結果として、米、果樹、家畜、野生動物、魚のそれぞれについて放射能汚染が示されています。
次の章ではこれらの結果を踏まえて「放射性物質は循環するか」、つまり重金属汚染のように環境中で拡散したり生物濃縮したりといった移動があるのかどうかを述べています。
どうやらこれはほとんど起こらないようです。
ここで取り上げているのは今回の事故での大半を占める放射性セシウムについての問題になるのですが、この物質は非常に土壌との結合性が高く、一度土壌に吸着したものはほぼ外れないという性質があるようです。それも農地の表面の深さ数センチまでの土壌に吸着し、それが流れることもなく、また植物に吸収されることもなく存在し続けているようです。
最後の章ではこれからの除染というのはどうすべきかということを述べています。
初期の頃に言われていたような植物(ヒマワリなど)に吸収させて除去するというのはほとんど無理だということが分かりました。
キノコには移行するのですが、それを使って土壌に吸着した放射性セシウムを減少させるというのも難しいようです。
農地表面の土壌を取り去るのが現在実施されている除染方法ですが、これでは農業に不可欠な表面土壌そのものを除去してしまうので農業を元通りに再生するということは当分の間不可能になります。
農業を知らない技術者たちは、汚染土壌を化学的に処理してセシウムを除去する方法を提案していますが、それでは土壌の農業生産性も失ってしまい、元も子もありません。
天地返しや表皮土壌だけを農地の一画にまとめてしまうという方法が有効なはずなのですが、そこで生産された作物を出荷するのでは消費者の反発が大きいだろうと言うことです。
以下には各所に書かれていた覚えておくべき事項を挙げておきます。
土壌に放射性セシウムが強く吸着しているなら水耕栽培をすれば良いのではという意見もあるが、元々水耕栽培というのは穀物などの生産は不可能。穀物は植物の種子を利用するのだが、水耕栽培のような栄養分を不足なく与える方式では植物が種子を生産しようと言う働きを失ってしまう。水耕栽培が有効なのは茎や葉を食用とする野菜などに限られる。
放射性セシウムは飛散した時にスポット状に土壌に吸着して高い放射能を示したところがあった。それが時間経過とともに拡散していくかどうかを調べたが、ほとんど拡散せず相変わらずスポット状のままだった。最初の数ヶ月で徐々に土壌への吸着が強化されていき、それ以降はほとんど動かない。
2011年に栽培された米の中で二本松市のもので特異的に放射能が高いものがあった。この栽培地は山のすぐそばにあり山からの雨水が非常に多く押し寄せるところだった。また上流からの栄養分が多かったためにカリウム肥料はほとんど与えられていなかった。これらの条件が作用し、上流からセシウムを含む土壌のかけらが懸濁状態となって多量に流れこみ、それが水田の土壌に吸着される前に米の植物体に吸着されたものと見られる。
原発事故直前には汚染地域となるところには羊や山羊が飼育されていた。それらの放射能汚染程度を事故数カ月後に測定したところ野外に放牧されていたものは内臓や筋肉に放射能を持つものが多かった。しかし1年半経過したものを測定したら激減していた。
植物には一般的には土壌からの放射能の移行はほとんど見られなかったが、キノコだけは高い放射能を持つものが見られた。
ただし、これは枯れ木などを栄養源として生育する腐生性のキノコ(シイタケ、ヒラタケ等)に限られており、菌根を形成する菌根菌(マツタケやホンシメジなど)には放射能が高いものは見られなかった。
キノコの養分吸収の方法は植物とは異なり、土壌中の養分をイオン化して取り込むのではない。そのために土壌に吸着したセシウムが移行すると考えられる。
なお、キノコの放射能を測定しているとセシウム137と134の比率が異なるものが見られた。福島原発事故で放出されたものはこれらの同位体の比率がほぼ1:1であるはずなのに、セシウム137ばかりのものが見られた。これは実は福島原発から放出されたものではなく、昔の核実験による汚染のものであり、すでに半減期の短い134が減少していたからと見られる。
地道な調査研究が行われていたようです。中には危険な作業や大学院生などの若い人にはやらせずに、先生自ら出かけた場合もあったとか。
かなり多くの結果から得られた知識は多いようです。これらをきちんと活かせる体制になればと思います。