爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「木簡・竹簡の語る中国古代」冨谷至著

木を削って作った木片に文字が書いてある「木簡」というものが古代の遺跡から掘り出され、そこに書いてある文字が解読されたというのは今でも時々ニュースになります。

紙と言うものが書写用の材料として使用される以前にはそのような物に書かれることによって文字が使用されたということは分かりますが、その実態はそれほど簡単なことではなかったようです。

こういったことを詳細に書かれたのが本書であり、中国の法制史が専門の京都大学教授の著者がその研究の中で解析してきた木簡などの文字記録について解説しています。

 

紙を発明したのは後漢蔡倫であると言われてきました。昔の教科書には発明者が蔡倫と書いてありましたが、最近ではせいぜい改良者として紹介されているように、最近の研究では蔡倫以前にも紙というものは存在し使われていたようです。

紙以前に文字が書かれたものとしては、殷の時代の甲骨、そして青銅器があります。またその後は石に文字が彫られたものも多く残っています。

 

しかし、実用的に文字が書かれ使われたというものは木簡、そして竹簡だったようです。

木簡というものは以前は知られていませんでした。それが発見されたのは1900年頃になってから、楼蘭の遺跡発掘においての話でした。

さらに敦煌の遺跡でも大量の木簡が発見され、歴史研究が急速に進みました。

その後大量に竹簡も発見され、併せて「簡牘」と呼ばれるこれらの物を研究する「簡牘学」という学問分野も発展していきます。

その後、日本においても木簡が発見されました。ただし日本では竹簡は見つかっていないようです。これは日本での文字使用の時代が中国と比べて下っているためのようです。

 

簡牘を用いた書物というものはどういうものだったかというと、それは縦に長い木片に文字列が書かれたものを次々とつなぎ合わせていくものだったのでしょう。

したがって、それは初めから書物と言う形になるわけではなく、言ってみればファイルのようなものだったのかもしれません。

古代の書物、論語老子孫子といったものがその内容には時代の異なるもの、後代に付け足されたものが多く含まれているという問題がありますが、これも自由にあとから付け足せるファイルであったということから生まれた問題だったそうです。

 

なお、ついでながら、その装丁に使われていたものは紐だったのですが、「韋編三絶」という言葉があり、それは韋すなわち革紐が切れるほど読んだということを表していると考えられていますが、著者によればその韋は革紐ではなく「横糸」を示しているということです。

 

木簡、竹簡と並べて使われているようですが、実はその二者の間には使用方法の相違があり、そしてそれが日本では竹簡が出土しない理由になっていたそうです。

竹簡は一定の幅のものを大量に作成するのが容易でした。一方、木簡は一本一本に穴をあけたり、傷をつけて印をつけたりするのが容易でした。

そのために、冊書を作るのには竹簡、一本ごとの単独使用には木簡と言う使い分けがなされたようです。

そのため、各種証明書、帳簿、戸籍などには木簡が使われ、書物に竹簡が使われました。そのような証明書は行政上の都合もあり紙が出現したといってもすぐに代えるわけには行かなかったのではないかということです。したがって、かなり遅い時代にも木簡の使用はあったようです。

一方、書物には紙の方がはるかに使いやすかったために、紙の供給が進むと皆竹簡から紙使用に移ってしまいました。それが竹簡が出土しにくい理由です。

 

日本では実はこれらの書写材料が渡来したのはすでに紙が登場した後の時代でした。

そのために、書物はもはや紙で作られましたが、行政用のものとしてはまだまだ木簡が使われていたそうです。それが日本ではほとんど竹簡の出土がなく、木簡の行政資料が多く出土する理由だったということです。

 

日本での出土事例が時々報道される木簡ですが、それがたいていは事務資料であるというのが気にかかっていました。文字が使用されるのはそういった事例が多いのかとも思っていましたが、この本を読んですっきりと解明された気分です。

まだまだ発掘される木簡はこれからも続くでしょう。それによりさらに歴史が明らかになっていくことを期待します。