爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「多数決を疑う 社会的選択理論とは何か」坂井豊貴著

国会で過半数を占めている多数党が何をやっても良いというかのような政治状況が続いており、これが民主制なのかと多くの人が疑問を感じているのではないかと思います。(少なくとも”そうであると期待します”)

少数意見も取り入れるのが民主的なのだという意見もありますが、これも単なる負け惜しみのようでもあり、本当のところはどうなのか分からないままでした。

 

しかし、さすがにこういった問題を議論していた学問分野もあったようで、著者の慶応大学教授の坂井さんの専攻分野である「社会選択理論」というのがそれであったようです。

 

現在のような不公正な選挙制度で実質的には半数に満たない票を獲得したに過ぎない政権与党が、国会の議席数では大多数を占め、それで独裁的な政策を進めるというのは確かにおかしい事態なのですが、それを理論的に研究するということは以前から行われ、さまざまな理論も生み出され、少しでも改良しようとする方策も考えられてきているようです。

 

多数決というからには、少なくとも多数意見が尊重されるのは間違いないと考えがちですが、そうとも限らないようです。

2000年のアメリカ大統領選挙ではブッシュとアル・ゴアが接戦を繰り広げましたが、そこにラルフ・ネーダーが割って入って第3の候補となったことはあまり記憶に残りません。しかし、それがリベラル派と呼ばれる人々の票を分裂させ、結果的にブッシュに大統領の座が渡りました。これは事実上多数意見が通らなかった選挙の結果に他なりません。

その後の推移をみるとブッシュが大統領でなければイラク戦争も起こらず、その結果としてイスラム過激派の膨張の具合も変わった可能性が強いことになり、あの選択は非常に大きいものであったと言えます。

 

投票と言う行動で集団の意志を集約する仕組みのことを「集約ルール」と呼びます。多数決というのもこのルールの中の一つに過ぎず、それ以外の方法もあるのですが、あまりその基本的なことを顧みられることはなく、一人一票の多数決だけに任される状況になっています。

有権者が「自分たちの意志が適切に反映されない」として選挙の棄権が増えるのも大きな問題となっていますが、これもこの集約ルールのためかもしれません。

 

18世紀のフランスにジャン=シャルル・ドゥ・ボルダという人がいました。

彼が複数人の候補者がいる選挙を行う際に、1位の候補者に1票だけを入れる方法の他に、有権者の意識の中で2位・3位となる候補者にも票の一部を入れるという方法を提唱しました。これがボルダ・ルールと言うものです。

つまり、主張が比較的近い候補者がいるとその間で票が割れて、結果的に漁夫の利を得る低位の候補者が出るということを防ぐことになります。

具体的には各有権者が候補者が3人だった場合、1位に3点、2位に2点、3位に1点を与えるということです。これをすべて集計すると他との類似性が低い候補者(ペア敗者と言う)が勝つ可能性が低くなります。

 

国政レベルでボルダルールを用いた例はほとんどないのですが、スロヴェニア国会議員ナウル国会議員キリバス大統領選挙で使われたことがあるそうです。

ただし、キリバスの例ではこのルールを逆手に取った戦術が横行しました。つまり、同じ陣営からクローンと言うべき候補を複数立てると結果的に優位になるということです。そのためこの方式は廃止されました。

 

政治担当者を選ぶ選挙ではなく、政策一つ一つについての有権者の意志を問うということについても多くの問題があります。

取り得るいくつかの政策の中から一つを選ぶ場合、コンドルセ・ヤングの最尤法と言うものがあります。

似通った政策の中から今度は「ペア勝者」決定の基準を用いることで「もっとももっともらしいもの」(これが最尤という言葉の意味です)を選ぶということです。

 

しかし、マルケヴィッチという人が提出した反例によると、55人の有権者が5つの政策から1つを選び出すという例を考えた場合、

1、多数決 2、ボルダルール 3、コンドルセヤングの最尤法 4、決選投票付き多数決 5、繰り返し最下位消去ルール の5つの方法を取った場合、その結果がすべて異なる場合が存在するということです。

つまり、どの集約ルールを採用するかによって、結果はまったく異なることになります。

多数決だけが民主的方法であるなどと安心しているととんでもないことになりそうです。

 

フランスの18世紀の思想家、ジャンジャック・ルソーは社会契約論と言う本を書きました。(この書名だけは高校の歴史で習いましたが内容はまったく知りませんでした)

この中で、主権と言うものはどういうことかと言うことが述べられています。

ルソーは少数派が多数派の意見に従わなければならない条件と言うことも書いています。それは無条件で常にしなければならないということではなく、厳しい条件付きのことでした。

例えば少数民族や性的少数派などは多数決にすべて従わなければならないとするとその権利をまったく守ることはできません。

そのための防波堤として、1多数決の決定より上位の判定基準をあらかじめ立てておく。つまり憲法の制定がそれに当たります。

次に2多数決の決定を複数機関で行う。これは二院制にあたります。

さらに3多数決での決定条件を過半数というよりも厳しくする。つまり、50%を少しでも越えればよいとするのではなく、66%以上にするとか、100%(満場一致)にするという基準を設ける。

といった規定が有効となります。

 

民主制には直接制と代表制がありますが、直接民主制はせいぜい2万人の集団までしか取ることはできないと考えられます。しかも2万人であってもすべての構成員が自由に討論できるわけではなく常に不十分なものになるでしょう。

そのため代表を選挙で選ぶ代表民主制を取らざるを得ないのですが、その代表が自分たちの思うような政策を実行するとは言えない状況です。

著者が関わってきた東京都小平市での都道328号線と言う問題があります。ほんのわずかな道路のために巨額の費用を掛け、さらに残り少ない森林を破壊するという計画のために住民の反対運動が起こりました。

その賛否を住民投票に掛けるというところまではこぎ着けましたが、行政側は投票率が低ければ開票しないという手続きを押し通し、結局は投票はされたものの開票もされずに没にされました。

小平市の中でもこの道路に関係する地域はごく一部であり、他の地域の人々にとってはほとんど関係が無い問題だったために投票率も低かったのです。しかし、限られた地域にとっては大問題であり、もしもその地域だけで住民投票が行われればそれは高い投票率となったでしょう。

このように、単純な多数決という方法だけで決めるということを続けていれば、本当の主権者である住民の声はまったく聞かれることなく、住民の代表として選ばれたはずの行政責任者(市長など)さらにその部下に過ぎない役人(市役所)のやりたい放題になってしまいます。

 

この社会的意志の集約という問題は非常に深いものがありそうです。

私も以前に、「経済成長だけで選ばれた政党が安保法制や憲法改正を行うのはおかしい」と書きました。かと言ってすべてのマニフェストが自分の考えと同じ候補者を選びたくてもそのような人は居ません。

ここを乗り越える制度を考えることが、この危機的な民主制度の状況の中では必要なことと感じます。

他にも社会的選択という問題について調べていきたいと思います。