著者の喜志さんは京都大学名誉教授で英文学、演劇学専攻ということですから、まさにシェイクスピアの権威でしょう。
シェイクスピアはどなたもご存じのことと思いますが、その作品はすべて戯曲です。
それらは皆観客の前で演じられることを前提として書かれ、実際に公演されました。
そこで考えておくべきことは、シェイクスピア自身が観客を意識しており、さらに観客の反応まで計算して書いていたということです。
そこに気を配ることが少なかったロマン主義時代以降の伝統的なシェイクスピア戯曲の解釈はともするとその本筋を見誤ることがあったようです。
本書ではその戯曲の3分の2について作者の意図と当時の観客の意識の方向まで詳細に分析されています。残念ながら私自身はシェイクスピアの作品として読んだことがあるのはハムレット程度であり、その劇としての公演も一つも見たことがありませんが、本書の分析を見ていくと表も見ないまま裏だけ見ているような気になります。
シェイクスピアの演劇を見たとき、全体として言えるのはシェイクスピア自身が劇中の特定の人物の肩を持ったり、その主張を支持したりと言うことを徹底的に避けていたということです。
どれほどの善人でも全面的に肯定せず、悪人でも全面的に否定しない。さらに善悪を判定する基準すらあいまいにしているようです。
しかも、観客がその劇の登場人物と同化しようとしたり、過度に劇の世界に没入するということをできるだけ妨害しようとしています。
観客は劇中の人物と一体になって楽しむのが劇を見る上では呑気で快適なのですが、そう簡単に観客が安住するのをシェイクスピアは許そうとはしません。
「ロミオとジュリエット」は現代では誰もがそのあらすじから結末まで知っているでしょう。しかし、実はその演劇上演にあたっては、最初に登場する「コーラス」と呼ばれる登場人物、これは「説明役」と訳すのが妥当だそうですが、そのコーラスによって二人の恋愛は悲劇的な結末に終わるということが説明されてしまいます。その結果を知りながら観客は劇の進行を見ていくわけです。
結末が分かっている劇がどこがおもしろいのかと言うのも難しい話ですが、シェイクスピアはそのように観客に見てもらいたかったということなのでしょう。
観客が劇の進行がどうなるのか、ハラハラしながら見ていくというのは安易で心地よい演劇鑑賞のスタイルですが、シェイクスピアが求めたものは別にありそうです。
観客は一方では主人公たちに共感しながら、他方では主人公に距離を保ち続ける。その距離のせいで主人公たちが一層痛切に悲劇的に感じられるという効果を狙っていたそうです。
なお、現代では場合によっては「コーラス」抜きでのこの劇の上演も行われるそうですが、それはやはりシェイクスピアの意図とは違うものになるということです。
「ジュリアス・シーザー」は上演当時のイギリスでもシーザーの結末は誰でも知っていることでした。そこではシェイクスピアは結末を念を押す必要はないのですが、逆にシーザーの暗殺が回避できるような場面を連続して出してきます。おそらく観客の反応を楽しんでいたのでしょう。
「ベニスの商人」では、その舞台もユダヤ人を巡る状況も当時のイギリス人にとっては良く知られているものでしたので、シェイクスピアもその知識を最大限に活用し、しかも単純に善人のアントニオに共感して悪人のシャイロックを憎悪すればよいというような描き方はしませんでした。
シャイロックにも差別の不当性を語らせ、アントニオには露骨な差別意識の発言をさせ、どちらにも観客は肩入れしづらい状況にされてしまいます。ポーシアすら人種差別発言をして全面的な善人とは言えないようにしてしまいます。
なかなか、シェイクスピアの戯曲と言うものはどれも一筋縄ではいかないもののようです。