道教とは中国では儒教と並び広く普及していたものですが、儒教が支配階級の道徳に近いものであったのに対し、道教は民間での庶民の信仰という面が強いものです。
そのため、学問としての対象になりづらく研究も不十分なものでした。特に日本ではその影響も限られたもののためにほとんど無視されたも同然の扱いとなっています。
また、中国では逆に現在でもその流れをくむ宗教団体が強力なために政府の圧力が強く、非合法化されるなどの弾圧もあるために表立った活動もしづらい面があるようです。
日本での数少ない道教研究家の著者が道教についてその歴史、内容、現在、そして日本での影響まで解説しています。
中国では表立った活動ができなくなっているようですが、台湾や香港、そして東南アジアでの中国人社会などでは道教の施設も見られます。日本にもある関帝廟や媽祖廟といったものもその一つです。
台南には天壇と呼ばれる道教の宮廟があるのですが、そこには数々の道教で祀られる神々の像が安置されています。主神は玉皇上帝、ほかに元始天尊、通天教主、太上老君などが見られます。
道教と言うと仙人が思い浮かべられます。もともとは神仙というものは道教とは関係なく、中国の戦国時代に広まり後漢の頃には最高潮に達したのですが、その後道教に取り入れられていくことになりました。
それは錬金術(道教では錬丹術)、呪術、呪符(キョンシーに貼るあれです)などとともに道教を形作っていくことになります。
錬丹術は医薬とも関係していくことになりますが、薬草を扱った本草は現在でも認められるものの、その主流であった水銀などを用いる方はまったくの迷信扱いされ顧みられていません。
唐の時代には皇帝も深くこれを信仰し、服用したために歴代皇帝が短命であったようです。
道教の歴史をというと、後漢末期から始まるようです。後漢王朝の末に起こった二つの反乱がどちらも道教の起源と関連します。東で起こったのが黄巾の乱(太平道)西で五斗米道の乱でした。
これらは病気の治療を目的とする宗教集団から起こりました。それが何故かと言うことはあまり研究されていませんが、著者は当時の疫病の被害が非常に大きかったためではないかとしています。
五斗米道では老子の「道徳経」が特に重んじられました。その後、五斗米道の張魯は曹操に下り仕えたためにその信仰も拡大していきました。王羲之もその信者だったそうです。
その後隋唐時代にはさらに拡大しました。特に唐では皇帝が李氏のために老子の子孫を自称し、保護しました。そのために歴代皇帝も信仰したようです。
日本にはあまり道教の影響がないように見えますが、実は仏教や神道に紛れ込む形で多くのものが取り入れられています。
八坂神社に庚申堂というお堂があるのですが、それは金剛神を祀っているようですが、実は庚申信仰と言う道教に由来する信仰のものだそうです。
また、熊本県八代市の八代神社は別名「妙見宮」と言いますが、その妙見というものは神社側からは天御中主神、仏教側からは妙見菩薩と言われていますが、実は道教の太上老君の化身の真武神に由来するもので、古くから残されている八代神社の霊符も明らかにその伝統的なものだそうです。
明治期の美術家、岡倉天心も道教に心酔し、道士風の服装をした像も多く残っているそうです。この点も通常の美術史家はまったく触れたがらない点だそうです。
現代中国では道教集団から派生した気功の流行が大きく、それが政府の疑惑を呼び弾圧の動きも強いようです。法輪功は気功に取り組むだけの集団だったのですが、そのあまりにも大きな求心力に恐れをなした政府が厳しく弾圧しています。
法輪功の主張には反政府的なものはないそうですが、瞬く間に数千万人を集めるという力を恐れたのでしょう。
気功を学ぶ人たちは法輪功とは違うと主張して実施しているようです。
道教を考えていくにはやはり中国の現状から見るべきでしょうが、まさに現代の政治問題であるようです。仏教などはすでに過去の遺物であるのと比較すると大きな違いに見えます。民衆の圧力というものがそれだけ強いのでしょう。