爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

戦争をしてはいけないとはどういうことか。

15日は太平洋戦争の敗戦から70年と言うことで、テレビもドラマや報道などそれ一色、新聞もそれで溢れています。
戦争体験者も高齢化が進んでいます。しかし彼らも戦争中にはまだ子供であり、一方的な被害者体験だけでそれを元に絶対に戦争をしてはいけないと語るのは当然ですが、戦争というものはその一面だけではありません。
少なくとも表面上は戦争を支持し、その体制に従っていた人が多かったはずですが、その意識を持つ人はすでにほとんど亡くなってしまっています。彼らがどのようにそういった国策に従っていったか(嫌々ながらでもそうしたというのは間違いない事実でしょう)それはもはや直接聞くことはできず、かろうじて文章の中に少し残っているだけです。

今まさに戦争法案を推進している首相も「戦争は決してしない」と述べています。彼は一方では「日本の領土はわずかでも渡さない」とも言っています。もし外国の軍隊が日本の領土に入ってきたらどうするのでしょう。それは自衛であり戦争ではないと彼が言うのは目に見えていますが、自衛といえど戦争であるのは当然です。これは矛盾ではないのでしょうか。

戦争は絶対にしないという人でも自衛のための戦争は認めることが多いのでしょう。しかし本土まで外国軍隊が侵略し国民をどんどんと殺害しているとなれば多くの人がそれに賛同するでしょうが、国境近くの無人島だったらどうでしょう。200カイリの経済水域だったらどうでしょうか。これらに侵入した外国軍を武力で排斥するべきでしょうか。
実はさらに範囲は広がります。外国に進出している日本企業の工場などが襲われたらどうでしょう(もう実際に起きていますが)。さらにそこの日本人従業員が襲われ殺害されたらどうでしょうか。
これに似た状況は太平洋戦争に至る日中戦争の開始前に起こっています。そしてそれを守るためと言うのが侵略の口実とされています。
さらにそれを守るためと称して外国に駐留している軍隊を攻撃されたと言って報復攻撃を始めます。これも自衛のためと言う口実をつけられます。

どうでしょう。自衛のためというのがいかに都合よく戦争の口実として使われてきたか。歴史が明らかにしています。ソ連アフガニスタン侵攻も、アメリカのアフガン戦争もどちらも自衛権行使と称していました。ベトナム戦争ですらそうです。
「戦争をしてはいけない」と言う言葉が上っ面だけの言葉として使われているように思います。それがどのような場合に成り立つのか、精一杯想像力を働かせて今後起こり得ることとして考えていかなければいけないでしょう。