爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「言語が違えば世界も違って見えるわけ」ガイ・ドイッチャー著

著者はマンチェスター大学言語学者であり、古代から現代にいたる様々な言語の研究をされています。
本書のテーマは「言語は思考・知覚に影響を与えるか」というものであり、古代ギリシャホメロスはその詩の中で「葡萄色の海」という表現を使っています。ギリシャ人は本当に海とブドウの色を同じと見ていたのかどうか、それを探る手段は他の文章での表現を集めるしかありませんが、それはそう簡単なものではないようです。

言語学の始まったころはこういった現代からは不自然としか見えないような色彩表現を見て、実際にその民族は色彩の識別ができないのではないかという仮説も生まれました。そして、現代でもいくつかの未開民族の言語で色彩表現が限られているものを見出し、その話者を調査することで言語と色彩の関係を見ていきました。
その結果、言語に色彩の表現があろうがなかろうが、その話者はきちんと色彩を見分けることができたようです。ただし、言葉では言い分けることはできませんでした。

いろいろと調査をしていくと、どの言語でも古代には色彩を表現する言葉は少数であり、それが徐々に増えていくという経過をたどってきたようです。そして、その発展の過程と言うものも似通っており、黒・白・赤・・・・といった順で色名が増えていくといった特徴を持つということが分かってきました。

してみると、他の点でも言語と言うものは文明の発展にしたがって複雑になっていくのか。これも一概には言えないようです。従属節を複雑に入れ込んだ文章と言うものを持たない古代言語というものもあったようですが、一方では古代言語の方が複雑な点もあったということです。

言語にはジェンダーというものを強く意識するものと、ほとんど失っているもの、もともと無いものなどいろいろあります。ドイツ語や南欧語など男性・女性・中性といった言葉のジェンダーを持つ言語もあり、英語ではかなり失われていますし、ハンガリー語インドネシア語などはもともとまったく性別がないということです。
男女がある動物にたいしても男性には男性語、女性は女性語ときっちり分かれているかと言うとそうではなく、ドイツ語などでは女性を表す言葉にも男性語と言う例もあり、他国の人からは理解しがたいことのようです。
実際にそういった国々では無生物で男性語を与えられているもの(ドイツでの”空気”)は強い・大きい・醜いといった連想をされ、女性語を与えられているものには弱い・小さい・美しいという連想がついてくるということはあるようです。ただし、”空気”はスペインでは女性語だそうです。

著者は日本語の有名な「青信号」はご存じないのかと思っていたら最終章に取り上げられていました。
日本語では「アオ」と「ミドリ」は現在では違う色を表す言葉として使われていますが、もともとは「アオ」が色を表し「ミドリ」は新鮮・未熟という状態を表す言葉でした。
1930年代に交通信号を作った当初はまだその色彩表現が残っていたために、完全に「ミドリ」色の信号であるにも関わらず「青信号」という名称になったのです。しかし、近年になりさすがにその色彩表現のずれは問題となりました。そこで日本政府が取った施策は通常考えられるような「信号の名称を”青信号”から”緑信号”に変える」ということではなく、むりやり信号の色を青に近づけるというものだったそうです。

なお、方向の表現で極めて珍しい言語がオーストラリア原住民の言葉にあったそうです。それは人の右・左といった表現を持たず、かならず絶対的な方位(東西南北)で呼ぶというものなのですが、これを使う人々は常に方位を意識していたとか。ただし、この言語も話す民族が滅亡寸前であり風前の灯です。ほかにも南米やオーストラリアに原住民の言語で失われたり、消えつつある言語は多数に上っており、貴重な特徴を持つ言語が永遠に失われているそうです。

英語ばかりが通用する世界になれば日本語も消えていくのでしょうか。そうならないとも言えないようです。