ユダヤ教の世界創造の神話、すなわち現代のほぼ全世界を覆っているユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神話の、その起源とも言える創世記の一番の神話、すなわち「神話の中の神話」と言うべきものが、「アダムとイブ」の物語です。
それについての数多くの絵画や彫刻も残されており、またキリスト教会が繰り返しその内容についての議論もしてきています。
神は天地創造の最終日に自身に似せて人を創造したということになっています。そしてそのアダムの助けとなるようにいろいろの動物を作るのですが、いずれもふさわしくない。そこでアダムのあばら骨を取りそれでイブを作ったとされています。
創世記の第1章では実は神は「男女を作った」と書かれています。第2章に「アダムのあばらからイブを作った」とあり、その間に矛盾があるのですが、これはすでに紀元前のギリシャのフィロンにより取り上げられ、解釈されているそうです。
また、イブを体内から作られたのであれば、アダムは両性具有ではないかと言う説も初期に異端とされたグノーシス派と言う人々により議論されていたということで、神学論争としても格好のネタだったのかもしれません。
アダムとイブは楽園とされるエデンの園で苦労を知らない生活をしていたことになっています。このエデンは実在していたというのがキリスト教の公式見解だったので、それがどこかということも議論されてきたようです。
アウグスティヌスはこの点を特に強調しており、寓意としてのエデンの園ではなく、実在の場所が存在していたことを主張していました。ただし、彼も具体的な場所を挙げることはできなかったようです。
アダムとイブは禁断の木の実を蛇にそそのかされて食べ、楽園を追放されます。しかし、それを描いた絵画の中には、どう見ても喜んで楽園を後にしているとしか見えないものもあるようです。これを「原罪」と言い表す習わしになっていますが、イエス・キリストもこの二人の罪に言及していないということです。
これを原罪として大きく取り上げたのは実は使徒パウロが始めたことだったようです。
原罪によって人は楽園を追われ荒廃した自然の中に放り出された。しかし、その自然を科学技術により作り直しまた楽園に近づけるという思想があるそうです。西洋の科学技術にかかわる哲学にはこの影響がみられるようで、現代科学技術による自然改変の根源はこのようなところにあるのかもしれません。
ユダヤ教と言うものが現代の宗教の大半を占めるものの起源であるのは紛れもないことですが、どうもいろいろと問題点も抱えているもののようです。困ったものだというのはそれ以外の宗教者の感想です。