爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「現代の戦争報道」門奈直樹著

著者はジャーナリズム論を専攻する大学教授ですので、ちょうど同じ頃に読んだNHKなどの報道姿勢に関する本を書かれた新聞社のジャーナリストとはやはり姿勢が少し異なるようです。
最近でも新聞社やテレビ局などの特派員ではなくフリーのジャーナリストが中東などの戦地に入り込みそこで殺害されたり過激派の捕虜となるという事態が頻発していますが、本書はその点についてはほとんど触れていないようです。2004年の出版ですが、その当時もそういった問題点が無かったわけではないはずですが、それよりは組織のジャーナリストに関する記述が主となっているようです。

戦争報道はいまや「情報戦争」との関係が大きな問題となるようになってしまいました。戦争の遂行側からも情報をフルに利用しようとする圧力が強まっている中で、報道をするということが困難になっているのは確かでしょう。
湾岸戦争からは報道を利用した「ゲーム感覚」の映像なども繰り返し流され、国論形成の役に立てようと言う政権の姿勢が強くなってしまっています。
それは「プロパガンダ」と報道とのせめぎあいだったのでしょうか。ペルシャ湾の油にまみれた水鳥の写真というのも確かに報道として見た覚えがありますが、これも宣伝としての偽物だったそうです。

そのすぐ後のユーゴスラビアへの空爆でもほとんどの報道は欧米各国のメディアコントロールのままにプロパガンダを流すだけとなり、ユーゴ軍、ミロシェピッチ、セルビア人すべてを大量殺人鬼として印象付けることに協力するだけでした。
NATO軍の攻撃では、ユーゴ内の報道機関にも偶然ではなく意識して攻撃が加えられ、多数のジャーナリストが犠牲になったそうです。欧米のプロパガンダに反するような報道をされることを嫌ったためだと言うことです。
これも「情報戦争」の一つの側面なのでしょう。
人道主義で紛争に介入している以上、敵は悪魔であるということを強調しなければなりません。

911事件とそれに続くアフガニスタン攻撃ではアメリカは好戦的愛国主義一色となり疑問を投げかけるような報道もできなくなりました。ヨーロッパや日本の報道もそれに追随していただけのようですが、その頃に「アル・ジャジーラ」という中東のカタールの報道が立ち上がりました。アメリカなどの作り出す物語とまったく異なることを報道する可能性があるということで、早くから危険視するムードがアメリカでは強かったようです。
ビン・ラディンのテープを放映した際にはカブールのアルジャジーラの支局をアメリカ軍は空爆しました。また特派員の拘束なども相次いだようです。
特にこの周辺の報道では日本はほとんどがアメリカのみを情報源としたものしかできず、独自取材が無いばかりか価値判断も独自のものはないままに推移していました。

イラク戦争に至り、まったく大義のない戦争であるにも関わらず対テロ戦争であるということのみで絶対化されたような報道しかできなかったのは、アメリカも日本も同様でした。
そこには、従軍記者というものの強固な取材システム化によるものが大きく、そこに参加しないフリーの立場の取材は徹底的に妨害し、場合によっては攻撃にさらすというようなことまでして排除したそうです。そのために得られる情報というものはアメリカ軍が管理したものしかなく、それ以外は記事にはできないことになりました。
アメリカのジャーナリストのノーマン・ソロモンが書いているのは「戦争での最初の犠牲者は真実だが、次なる犠牲者は良心だ」ということです。ジャーナリストしての使命感と良心を持つ人には耐えられない状況なのでしょう。

本書の最終章には「戦争ジャーナリストとは危険な職業」とあります。アメリカ軍の流す情報だけを伝えていれば危険は少ないでしょうが、もしも「攻撃される側からの視点」を持とうとすれば自らも攻撃の対象とならなければなりません。したがって実際に多くのジャーナリストが死亡しており、これからも増えることでしょう。
このような状況にインターネットを初めとする新たなメディア環境の変化はどのような影響を与えるのか、著者は答は書いては居ません。