爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「ニッポンのサイズ」石川英輔著

江戸文化研究者として著名な著者ですが、この本では日本の伝統的な長さや重さなどの秤量の基準(度量衡)について書かれています。
現在ではメートル法の使用と言うものが法律でも厳しく定められており、それ以外の使用は不可となっていますが、元々はさまざまな基準があり使用されていました。これは日本だけでなく諸外国でも同様です。
日本で使用されてきた基準は中国由来のものも多いのですが、日本で独自に発展したために中国とは数字が異なってしまったものも多いようです。

一方、メートル法というものは革命後のフランスで科学的な見方から定められたものであり、実生活と結びついたものではないためにすべての基準をメートル法化するとさまざまな不都合が生じるようです。そういった不便というものは現在の中年以下の人々はあまり感じなくなってしまったようですが、以前の便利さを知っている年代には切実な感覚が残っているようです。

メートル法は基本を長さのメートルに置き、それを地球の大きさから計算して決めました。北極点から赤道までの長さの1千万分の1を1メートルとしたのですが、その後の改定でより正確なものに定義を変更されています。その長さの1mから体積の1リットルを決め、さらのその水の重量から1kgを決めています。
しかし、旧来の度量衡である尺貫法というものは、人間の大きさと言うものを基準にして自然に作られてきたものですので、当然ながら人間の生活に密着したものとなっており、使いやすさと言うものは優れたものでした。
「尺」というものは、元々は古代中国で指を広げた長さの約18cmを指していたそうですが、その後徐々に広くなり周の時代には23cmほどに延びたそうです。人間の指の長さが長くなったわけではなく、測るものの都合で延びていったそうですが、いろいろな尺のなかで、曲尺(かねじゃく)というものは古代から現在までおよそ30cmということで変わっていないそうです。これはヨーロッパの「foot」ともほぼ同じ長さであり、人間にとって使いやすい長さだったのではないかと言うのが著者の想像です。

着物を仕立てる時に使う「鯨尺」というものは執拗なメートル法強制の国家政策によっても失われずにまだ存続しているそうですが、鯨尺の1尺は曲尺の1尺2寸5分にあたり、37.88cmということです。これは着物の作成過程において、変えることのできない単位に基づくためにメートル法などに置き換えるわけには行かないようで、袖丈1尺5寸といえばすっきりするのが、57cm(小数点以下は略)などと言ってもすぐには判りません。着物の仕立てはすべて同一基準の反物によっているために鯨尺は捨てようがないということです。

容量の1升、1合というのは今でも炊飯器や酒の容器などにしぶとく残っています。これもそちらが非常に生活に密着しているために都合が良いためのようです。ただし、これも古代では1升というのが手のひらを合わせてすくえる量から来ているということで、元は約200mlだったのが徐々に増えてしまい今では約1.8リットルとなりました。これも統一されたのはようやく江戸時代になってからのことだったそうです。しかし、その後共通の単位として浸透したためにもはや変えようのないほどに生活密着の単位となってしまいました。

広さの「坪」というのもなかなか無くならないようで、住宅の広さも平方メートルと併記されて坪表示がされており、そちらを見た方が分かりやすいという感覚は残っています。正式には田畑などの広さを示す単位は「町・段・畝・歩」なのですが、その「歩」が「坪」となって使われるようになった経緯は良く分かっていないそうですが、明治時代には法律で歩と坪は同一と定められたそうです。

長さの「里」も時代により実距離は相当変化してきています。中国では周の時代に1里が約550m、清朝になっても570mくらいでこちらではあまり変化がないようですが、日本ではいろいろな「1里」を使っていたということで、「1里」を距離の単位として同一に扱うのではなく、旅程の単位として同じだけの時間で行ける長さと考えたようです。したがって、平地では早く進めるので長い距離、山地では進みが遅いので短い距離を同じ「1里」と表記したので距離としては異なることになってしまいました。
こうしておけば、かかる時間は同じと言うことになりますが、場所によって距離は違うと言うことになってしまい、平坦な山陽道は72町里(1里が72町)山道の中仙道では36町里だったそうです。それでは不都合と言うことで統一されたのは明治になってからで、36町が1里ということになり、1里約4kmということになったということです。

江戸時代の時間は不定時法で季節により時間の長さが変わるということは知ってはいましたが、その理由までは深くは考えたことがなかったのですが、本書によれば照明がほとんど無いも同然の場合は昼間の自然光を最大限に利用する必要があるために、明るい時間というものを中心に考えるのは当然ということです。明け六つ、暮れ六つという言葉だけは知っていたのですが、その定義は日の出、日の入りのその時刻ではなく、およそそれよりも30分ほど前後の時間だそうです。これは30分前には十分に明るくなるために、(夕方は逆)そこまでを活動時間として六つの時としたのだとか。非常に合理的であるのに驚きます。
なお、現在でも夏の朝の明るい時間がもったいないと言ってサマータイムなるものを推進しようとする連中がいますが、江戸時代の時刻はあくまでもその場所での日照であり、全国統一などではないことが異なります。北海道の感覚で時刻を左右されたら西日本の人々は迷惑千万です。

現代がメートル法により動くのは仕方のないものなのかもしれませんが、事実上尺貫法も残さざるを得ない社会があるというのも間違いのないところです。あまり無理強いすることなく共存していけばよいと思うのですが。