爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「南九州に栄えた縄文文化 上野原遺跡」新東晃一著

著者の新東さんは鹿児島県埋蔵文化財センター次長という職で、遺跡発掘の直接の担当をされているということですので非常に詳しい発掘に関する記述がされています。

鹿児島県などの南九州には縄文文化は無かったかのようなイメージがありますが、実は他の地方に先駆けて縄文土器を作った人々がいたということが発掘で分かってきましたが、それとともにそれらの文化が火山の噴火で埋もれてしまったという事実も明らかになりました。
鹿児島県の遺跡には11500年前の桜島噴火による薩摩火山灰層と、6400年前の鬼界カルデラ噴火によるアカホヤ火山灰層がはっきりと堆積しており、その上下でまったく異なる遺物が発見されます。
縄文早期の遺跡と見られる鹿児島県姶良の上野原遺跡の発掘で大きな成果が得られ、現在では上野原縄文の森という施設も作られているようですが、その発掘とアカホヤと呼ばれる火山灰の意味がはっきりとしたのはまだわずか30年ほど前のことだということです。
アカホヤと呼ばれる土壌は関東地方にまで分布しているのですが、昔はこれが同一の火山から出たものとは考えられていなかったようですが、詳しい分析を重ねてようやく6400年前の鬼界カルデラ噴火によるものと確定すると、その地層中での年代の指標となり、それを元にその上下から発掘される土器などの編年の理解にも役立つようになったとか。

鹿児島県霧島市の工業団地造成中に1997年に発見された上野原遺跡はその後の解析の結果、9500年前にすでに10軒程度の住居が集まった集落であることがわかり、それまでの縄文観を変えてしまうようなものだったということです。

縄文時代の土偶や土製の耳飾は他の地域では3000年から4000年ほど前の時代の遺跡から多数が発見されているのですが、南九州の遺跡では縄文時代初期の場所から壷や耳飾が発見されているということです。そのため、壷は最初は弥生式ではないかとして分類されていたこともあったようで、編年の正確さが確かめられたあとになって縄文時代の遺跡であることが判ったこともあるようです。
その結果、縄文時代はこれまで考えられていたような「東高西低」ではなく、初期には「西高東低」であるといえるようです。しかし、6400年前の鬼界大噴火でその文化は一旦壊滅してしまいました。その後、数百年を経てアカホヤの上にも植生が回復し人が住めるようになったのですが、そこの遺物は別の系統のものになってしまったということです。

上野原遺跡にはその歴史的価値を示した施設ができているそうです。機会があれば行ってみたいものです。