爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「裏日本 近代日本を問いなおす」古厩忠夫著

「裏日本」とは以前はよく聞いた言葉ですが最近はおおやけにはまったく使われることがなくなったようです。しかし、実態はなくなるどころかますますひどい格差ができているようです。まあこれは”裏日本”ばかりでなくすべての地方が同様ですが。

中国近現代史が専門の著者が「裏日本」について語ったというのはさまざまな要因があったようですが、長野出身であり新潟大学の教授であったということもかかわり、新潟での様々な人々との討論という機会もあったようですが、さらに癌を患ったために自分の考えをまとめておきたいという望みを持ったということも大きかったようです。しかし本書出版後数年のちには大学教授在籍のまま亡くなられたそうです。遺書のようなものだったのかもしれません。

裏日本という言葉は若い頃(30年以上前)には良く聞いたような気がしていましたが、NHKでは1960年頃には使用自粛という動きがあり、他のメディアでも1975年くらいには使わなくなってきたようです。そして、その使い始めというのも事情が判っており、最初に使われたのは1895年で、社会的格差を表す用語として頻繁に使われるようになったのは1900年頃からだったということです。その間60-70年間に頻出していたのですが、それは社会的にも政治的にもまさに「裏日本」化を進められてきた時期でもありました。しかし、著者も書いているように言葉を換えても実態はまったく今でも変わっていません。

裏日本とはどこを指すかという点ですが、北陸と山陰のみを表していたようです。戦後すぐの国会討論でも「東北、裏日本、および南日本」というように低開発地域を示した答弁があり、東北や南日本(九州)は別扱いとして、北陸と山陰を特に表したものです。

これら地域は元々低開発というわけではありませんでした。明治初年の人口などの統計数値を見ても、当時の主産業であった米作の主産地は日本海側という事情もあり、太平洋側の地方と比べ引けは取らないものでした。金沢などは大都会に数えられていたようです。また江戸時代以降明治初期までは北前舟と呼ばれる海運が国内の流通の大きな部分を占めていたためにそれらの物資流通の拠点として栄えた地域も各所に存在していました。
しかし、明治初期から鉄道の敷設は完全に太平洋側に偏り、それ以外の政策的な投資がほとんどすべて「表日本」に向けられたことにより、産業の発展が表日本に限られそれに伴い人口の移動も大きく、その後の発展に大きな差ができてしまいました。
日清・日露の戦争のあと、大陸進出の機運が高まるとそれまでの裏日本意識に変化が見られ日本海の反対側とともに裏日本も成長を求めるという方向になって行きますが、第二次大戦敗戦でそのような動きは止まってしまいます。

戦後、高度成長もほとんどが表日本に偏る中で田中角栄が出現し、日本列島改造論が出てくるわけです。裏日本だけに限った話ではないのですが、田中の本拠地が新潟ということもあり裏日本復権という意味の強いものでした。
しかし、これまでの後進地域をインフラ整備で一気に成長に向かわせるということはすでにできるような時代ではなく、歪みが強くなるばかりで終わってしまいました。
鉄道・道路整備で企業進出は行われてもそれは部品製造などの「国内の分業」での役割分担にすぎず、海外の方が有利となるとその役割も取り上げられることになってしまいます。
国内分業では、原発立地や核廃棄物処理などの役割も押し付けられることとなり、弱みに付け込まれたさらなる格差の拡大となっています。

ロシアや中国との国交回復もあり、また「環日本海ネットワーク」といった戦前の主張の復活のような動きもありますが、相手方もロシアの沿海州、中国の東北部はいずれも国内での後進地域であり、それらがまとまっても動きが取れないと言う事情もあり大きなものにはなっていないようです。

効率化を重視したGNP主義に止まっている限りは「裏日本復権」は難しいようです。そこからの脱却が必要だということが著者最後の提言になっています。