爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

行ったことのある都道府県 秋田県

秋田にも一度だけ行ったことがあります。
これは高校2年の時、当時の蒸気機関車最後の活躍を見に行った時のことです。奥羽本線羽越本線の最後のSLを撮影するために夏休みに入ったらすぐに旅立ちました。

行先をどこにするかというのは悩んだのですが、ほとんど情報も得られない中で鉄道趣味の雑誌の記載を頼りに二ツ井周辺は新線切り替えのために電化工事も行われないと言う話を信じて二ツ井駅から歩いて場所を探すこととしました。
もう45年も前の話ですので記憶も不確かですが、特急あけぼのに上野から乗車し、二ツ井駅には停車しなかったのでその前の東能代で降りて各駅停車で向かったと思います。
二ツ井駅からは徒歩で東側に向かい適当な場所を見つけて列車の撮影をしました。そのときに写したSLの中にC61の20号機があったのですが、奇しくもそのSLとはその20年後に群馬の伊勢崎で再会することとなりました。さらにそのC6120号機は動態復活されて走り出していますのでそのうちに再会できるかもしれません。

それはさておき、二ツ井で撮影を終えた後は普通列車で秋田に向かい秋田駅の駅前旅館に一泊しました。現在とは違いビジネスホテルなどというものもまだ無く、普通の旅館でした。帰ってから家で両親に話をしたら、父が「よく高校生一人で泊まれたな」と言ったのを思い出します。

翌日は羽越線を南下し、小砂川駅の周辺で鳥海山をバックにD51を撮影しました。その後は酒田を経由し上野行きの夜行列車で帰りました。

まだ頼りない高校生でしたが、何も言わずに送り出してくれた両親に今さらながら感謝です。

当時は神奈川県在住でしたが、夏休み入ってすぐと言っても秋田ではまだ学期中らしく学生が通学していました。二ツ井への行き帰りの列車でも多くの高校生が乗車していましたが、その人たちの会話がまったく理解できなかったのも懐かしい思い出です。ちなみに、その15年後に弘前に行った時にも女子高生がたくさん居ましたが彼女たちの会話は理解できるものでした。その間に方言の事情も大きく変化したのかも知れません。
なお、秋田の駅前旅館では高校野球秋田県予選の出場チームが同宿でした。これまた判りにくい言葉で仲間内で会話していました。

余談ですが、旅行の切符手配などを横浜の旅行会社に依頼し、夏休みに入る前の一日、学校が終了後に横浜に行き購入しました。その帰りに実家のある茅ヶ崎までの電車で帰っている途中、いきなり学生風の人から声をかけられました。こちらは学生服のままでしたので、襟の校章を見て学校名が判ったようです。数年前に卒業した先輩ということでした。その高校は藤沢でしたので、横浜からの下り列車に乗っているのが不思議だったようでした。
事情を話し、他にもいろいろと話をさせて頂いたのですが、聞いてみると高校ばかりでなく中学も一緒の方でした。ちょうど東京大学が学生紛争のあおりで入試中止となった年の受験生で、東大進学を希望していたのにあっさりとあきらめて慶応に進学したとか。希望を捨ててはダメだと体験をお話いただきました。ほんのわずかな乗車時間だけでしたが、まだ記憶に残っています。お元気ならもう60代半ばのはずですが、その後どのような人生を送っていらしたのでしょうか。

閑話休題秋田県の一番の光景は「鳥海山と海岸線」ということにしておきます。