爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「日本の”境界” 前近代の国家・民族・文化」ブルース・バートン著

著者は日本の古代史を専攻した歴史学者で、本書出版当時は桜美林大学助教授ということですが、現在は教授になっておられるようです。

「日本の境界」というと様々な想像力をかきたてられますが、国の政治権力の及ぶ範囲というものと、通商などで影響力を受ける範囲といったものなどのいずれも対象とした考察がなされているようです。
しかし、一般書のような書籍の体裁ではありますが、ほとんど学術書という内容で非常に難しかった。
理系の学術書は専門用語や術語の難しさというものはありますが、内容が理解できる範囲であれば解釈はかえって楽なのかもしれませんが、文系の学術書というものは言葉の意味というものをぎりぎりまで使っているように思えます。したがって、簡単に流し読みをしてしまうとすぐに迷路に入り込んでしまうようで、後戻りになってしまいました。

さて、境界といっても政治的な境界だけではなく人種の境界、文化の境界、またそれ以外に「民族性」というものの境界もあるということです。政治や文化などは考えやすく、また人種の境界も明らかなように思えますが実はそうでもないらしく、日本と周辺には明確な境界というものはあったとは言えないようです。

また、この分野では「世界システム論」というものがあるようで、これは古代から現代まで共通して考えうる概念のようですが、政治的・軍事的交渉が及ぶこと、また大量に製品が流通する範囲、そして「威信品」と呼ばれるような、権威の象徴と見られる製品など(古代の銅鏡のような、また下って富の象徴としてのぜいたく品のような)の流通(商行為だけとは限らない)、そして情報が届く範囲まで含めて各地域を一つの「システム」と見て、その範囲を考察しさらにシステム間の相互交渉を見ていくといった方法論のようです。
それによると、古代の東アジアで中国を中心とした「世界システム」だったのか、それとも日本だけ孤立していたのか、さまざまな考え方がなされているようですが、著者はやはり中国のシステムに完全に日本が含まれていたとは言えないという考え方のようです。

また境界と言っても「バウンダリー」と「フロンティア」の違いというものがあるようで、ある程度以上のレベルで独立したシステムまたはサブシステム間の境界はバウンダリーといえるようですが、それほど独立したものではなく従属しながらの境界というものがフロンティアということでしょうか。日本で言えば朝鮮との境はバウンダリーで、アイヌとの境はフロンティアということのようです。
アイヌとの関連についてはかなりの分量を割いて本書中で論じられています。あまりまともに取り扱われていない事柄であり、日本史としても教育されていない部分ですが、知っておくべきことなのかもしれません。