爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「2050年は江戸時代」石川英輔著

1994年出版ということで、もう20年も前の本ということになってしまいました。2050年にはかなり近づいてきました。

最近読んだ別の本の著者が、「エネルギー使用の削減というと”江戸時代の生活に戻れというのか”と文句を言われる」と書いていたものがありましたが、本書はそのものずばりの内容です。
本書著者はSF作家ですが、江戸時代の社会についての知識も豊富で多くの著書を著しており、江戸時代の日本社会の優れた点というものを主張しておられるようです。

本書は完全にSF仕立てで、製造業の能力が徐々に失われた日本は経済力もまったく無くなり、食糧も輸入できなくなったという設定で、その後の自給自足社会になった時の東京郊外の山村の様子を描写しています。
著者あとがきにもあるように、初版発行後には数々の読者からの感想が寄せられたそうですが、なかには少しながら批判もあったそうですが、著者の答えとしては「SFとして読んでほしい」と書かれています。
ある読者からは「農業を甘く見るな」という批判もあったということですが、ここは実は今回私が読んでも気になったところです。
食糧や原材料、石油などの輸入が困難となった日本社会では都会の生活というものは難しくなり田舎へ帰り帰農するということになるのですが、最初は難しいもののすぐに食べるだけの作物はできるようになるということなのですが、そんなにうまくいかないだろうとは誰でも考えそうなことです。
食糧も輸入できなくなるということは、農業資材の輸入もできなくなるということで、特に肥料の不足は厳しくなるでしょう。本書中にはそれを補うために一定の土地に木を植えてその落ち葉で堆肥を作り、薪にも使うとありますがそれでは絶対量が足らなくなるのは間違いなく、徐々に生産量が少なくなっていくことになるでしょう。
これは自給自足でその土地で作られた作物はすべてその土地に住む人が食べ、その排泄物を土地に戻したとしても避けられません。ましてや作物の一部を売却ということをすればさらに栄養分の減少は早くなるでしょう。
そもそも江戸時代の農業でも土地の栄養分の減少による生産量の漸減はあり、金肥(金を払って購入する肥料)として油粕や魚粕を入れざるを得ませんでした。それがうまくいかなければ永続的な農業は難しいでしょう。

しかし、本書中の描写にもあるような、現在の廃棄物(たとえば廃車の山)がこのような状況になれば資源の塊になるというのも確かでしょう。現在のフィリピンのスラム街の状況などとも重なります。

実はこのようなSFは私自身も書いてみたいと思ったことがありました。もちろんそのような状況に至る原因は異なり、あくまでも石油などのエネルギーが枯渇した時代というものを考えてのことですが、結果としては同じことになります。しかし、小説家でない身の悲しさで登場人物の生活の隅々まで想像するということが難しく、途中であきらめました。それでもそのような事態になればどのような社会になり、どのような生活をしていかなければならないかということは、学者が精密に考証するということとともに、小説家が細部まで描写するということでより想像しやすくする価値は大きいと思います。

本書の中では、2050年に中年以下の年代の人はその自給自足社会で生まれ育っているので適応しているのですが、初老の人々は昔の「東京時代」の「繁栄」を知っているために適応できない人も居るという時代設定です。
その中で村の長老が東京時代からの変遷を語るというところがあるのですが、食糧輸入が途絶えたときには多くの人が餓死同様の状況で亡くなったと語られているもののその描写はほとんどありません。日本がこのまま自給自足社会に移ることは全く不可能であり、そこには大幅な人口減少が必要となるでしょうが、その混乱は大変なものになるでしょう。下手をするとそのまま壊滅という可能性もあるかもしれません。

SFというのは可能性を膨らませてその中での人間を描くことで読者の想像力を刺激するものと思います。本書の設定もあくまでも可能性のある一つの状況ですが、ありそうな可能性であるというように思います。