爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「人間にとって科学とは何か」村上陽一郎著

科学哲学、科学史研究者の村上陽一郎さんが科学とは何かということを一般向けに解説されたものです。
科学というものが大きく変化していく中で、社会と科学とのかかわりと言うところも含めて書かれています。

科学の本質というものが段々と形成されてきたのですが、核兵器生命科学といった方面の科学の分野の成長が大きくなってくると社会との関係も大きく変わって行ったようです。
医療分野などでは研究者と実際の研究対象(患者)というのは密接なかかわりがあるのは当然であり、科学だからといって偉そうな顔はできないぞといったところでしょうか。

安全とリスクというのも近年大きなものになっている科学の一分野ですがこれも一般人とのつながりが大きいといえるでしょう。そこでどれだけ科学としての立場を守っていけるのでしょうか。

本書は2010年に書かれていますが、ちょうど民主党政権事業仕分けというものが行われ、スーパーコンピュータの予算削減などで話題になりました。科学が社会の何の役に立つのかということを説明できるかどうかということも問題になりました。それが経済優先の科学だけに金が集まるような風潮にもつながっているのでしょうが、そうでない科学も社会のために必要だということをきちんと説明できるのかというのは難しい問題です。

precaution activity についても説明されていますが、これは普通は「予防原則」と訳されて使われていますが、著者はこれは誤訳であると言っています。precautionは「予防」ではなく「警戒」であるべきだということです。予防とは科学的に因果関係を立証できるものを未然に防ぐということであり、警戒はそれが不明なものを防ぐということなので、ここは「事前警戒原則」と言うべきだと言うことです。より適切なのは”転ばぬさきの杖”原側だそうです。
なお、無理に事前警戒原則を使用するというよりも本当は「様子見」という方がふさわしい場合が多いということで、これは決して対応をサボるということではなく最小限の投資で警戒することになるということです。含みの多い見方かと思います。

研究予算のあり方として、大学教員には科学研究費というものが昔からあり、そこではそれほど厳しい審査もなく報告書も誰にも読まれずに通っていたのですが、最近の他の研究予算では目標の明確化と達成度の判定などが厳しく行われるようになりました。しかし、これは科学哲学的に見ればまったくの誤りであり、わかっている目標を達成するだけのものなどは「科学研究ではない」というのが著者の意見です。目標を立てて研究するうちに予想とは違って新たなものを発見していくのが科学と言うべきであり、目標に到達できればOKというのはそうではないと言うことです。

科学というものをより普及しなければならないのですが、そのためにも学校での「教養教育」というものを進めるべきと言うことです。現在では社会に出てから役に立つということばかりが強調され、専門教育ばかりに力が入れられていくようですが、その結果最低限の科学知識も付けられないまま学校を卒業していく若者が多くなり、社会人のレベルダウンにつながっています。文系にも理系知識を、理系にも文系知識を最低限の教養として教えることが必要であるということです。

村上先生といえば私が大学に入学した頃に教養課程で科学史の講義をされていました。残念ながら受講する機会はなかったのですが、聞いておけば良かったなと後悔を覚えた本でした。