爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「西南戦争 西郷隆盛と日本最後の内戦」小川原正道著

西南戦争は本書題名の通り日本最後の内戦と呼ばれている大きな反乱でした。

鹿児島で挙兵し陸路を北上して当時の熊本鎮台、熊本城での攻防戦と田原坂の戦いが有名ですが、いずれも南九州一帯が舞台であり私の現住所付近でも様々な跡地が残っています。熊本城包囲戦の最中に政府軍が上陸したところですので、官軍の部隊の指揮所と言われるところは各地にありますし、球磨川堤防沿いに戦闘が行われたところも残っており、宮崎八郎戦没の碑というものも残っているのは知っていました。

 

しかし、その内容についてはほとんど知らなかったことばかりで、詳しいことは分かりませんでした。本書は専門の歴史家ではない著者(政治学者ということです)が書いたものですが、西南戦争の発端から戦闘の詳細、戦後の動向まで非常に詳しく記されています。

 

明治維新のあと、政府中枢にあった西郷隆盛は政権の主導権争いに敗れ下野します。

当時は全国各地に政府に不満を抱く士族や民権派が多く、火種は尽きない時でした。

西郷が鹿児島に戻ったころ、桐野利秋篠原国幹村田新八といった人々が中心となり、「私学校」という組織を成立させます。西郷も直接設立に関わったわけではないようですが、その思想的中心として祭り上げられた形になっています。

 

その後、各地の士族反乱が勃発し、熊本神風連、秋月の乱萩の乱と続き、鹿児島の私学校もそれに続く動きを見せましたが、西郷があくまでもこだわっていたのが決起をする「大義名分」でした。その決定的な名分が得られないなかで、政府からの鹿児島視察団が送られるのですが、それが西郷暗殺の密命を受けていたという疑惑を持たれることとなります。

そして、それを大義名分として鹿児島私学校の決起が行われることとなりました。しかし、西郷自身もこれでは大義名分として弱いという思いがあったようですし、さらに全国の士族も挙兵に同調するための名分としては不足と見られ、九州以外ではほとんど同調の動きが見られずに終わった要因となりました。

 

挙兵直後も西郷自身の反乱への参加が確認されず、政府側の対応も難しかったようですが、薩軍が熊本に接近するという事態になり政府も説得をあきらめ征討軍派遣、武力による鎮圧を目指すことになりました。

 

薩軍側の戦略も海路土佐から大阪へ向かう案や、長崎経由で上京等の案もあったようですが、武力に絶対の自信があったようで陸路で熊本を経由して北上するという戦略を取りました。熊本鎮台などは一蹴する気であったようです。

官軍側も援軍がすぐには到着しない見込みの中、熊本城籠城策を取ることとなりました。ここで有名な熊本城炎上の火災が発生しましたが、作戦への影響はなく平民出身の徴募兵を含む官軍による籠城戦になりました。

堅固な構造で知られる熊本城ですが、西側が若干弱いということで、そちらからの攻勢が激しかったものの段山(だにやま)を巡る激しい攻防戦も官軍が守り切り膠着状態となります。

 

福岡からの政府軍の援軍は乃木希典が率いる連隊でした。これが植木町田原坂付近で薩軍と激しい戦闘を繰り返しました。これが田原坂の戦いです。

両軍相当な被害を出しましたが、物量に勝る官軍が最後には薩軍を破ります。

北方からの進撃がうまく行かない官軍は南方からの両面作戦として長崎から海路で八代に上陸、薄かった薩軍の抵抗を退け占領します。

さらに増援された部隊で八代から北上し熊本の川尻に近づき熊本城包囲の薩軍を背面から攻撃する体制ができます。

4月14日には包囲軍を破ってようやく熊本城に入ります。これを「熊本城開通」と称し、この報が両軍に行き渡ることで戦局は官軍有利となり薩軍は崩れていくことになります。

 

薩軍は熊本城包囲は解いたものの各地で抵抗を続けますが、次々と敗れ敗走します。

人吉で敗れた敗軍は宮崎に逃れ、延岡でも抵抗するものの敗れます。西郷はそれでも捕まることなく鹿児島に逃れますが、結局城山で自決しました。

反乱軍に参加したものの中には無理やり連れてこられた者も多かったようで、そういった人々は劣勢となるとすぐに降伏し、官軍に参加する者もいたようです。それが崩壊の速度を速めました。

 

西南戦争の終結で、日本各地の不平士族と呼ばれる人々も武力決起の困難さを悟り、その後は民権運動に集結することとなりました。

また、西郷もすぐに名誉回復となり、上野の銅像もその動きの中で建てられることになりました。中にはそれに異を唱える人もいたようですが、西郷人気の庶民をなだめる意味もあったようです。

 

戦闘の主要な部分は熊本県内が多いため、非常になじみ深い場所が多く出てきました。100年ちょっと前にそのような激戦が戦われたということがウソのようなのどかな場所に見えます。この戦いで鹿児島の勢力は完全に牙を抜かれました。

明治維新のいろいろな残渣を一気に流し去ったかのような出来事だったのかもしれません。