爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「秩禄処分 明治維新と武士のリストラ」落合弘樹著

明治維新でそれまでの幕藩体制というものが崩れ、士農工商というものも無くなり、士族と平民とに改変され、士族も禄というものを失い原野開拓などに向かうものもあり、また士族商法という言葉で表されるように下手な商売に手を出してすべてを失ったということは断片ながら知識として知ってはいました。

また、明治初期に士族の反乱というものが相次ぎ、その最後で最大のものが西南戦争であるという認識もありましたが、それらを詳細に調べたということはありませんでした。

 

これは専門の歴史家の間でも同様であり、著者の落合さんも研究を進める際にあまり他の研究成果がなかったようです。

 

本書まとめにもあるように、それまでの支配階級であった武士と言うものを解体するというリストラがほとんど抵抗もなく(かなり無理がある実施だったようですが)なんとか遂行されたという理由には武士の側の自覚というものも大きかったようです。彼らはそれまで得ていた家禄というものが明治に入りもはや存続できないということも理解していました。それを失うことは収入を失うことですがそれも新たな日本のためにやむをえないということも認識していたそうです。

とはいえ、かなりの紆余曲折がありまた士族反乱の主因とは言えなくともその要因の一つでもあったことは間違いなさそうな秩禄処分が10年ほどの期間にどのように行われたのか、その研究成果を一般にも分かるように噛み砕いて説明をされています。(それでも相当難しい内容ですが)

 

江戸時代以前には武士はそれぞれ支配する土地を持ち、そのうえでより広い地域の領主に臣従するという形態でしたが、江戸幕藩体制では武士は自らの土地を失い藩からの家禄を受けるという形にほとんどが移行してしまいました。

すでに官僚化していたということになります。

それが明治維新により郡県制度となり徐々に中央からの派遣官僚による政治制度となるとそれまでの武士はまったく職を失いました。その彼らにこれまで通りの家禄を与えることは不可能です。国家収入の三分の一が家禄として与えられていたそうです。

元々江戸時代末期では幕府の財政も窮乏していたのももちろんですが、各藩の財政も多くの藩で破綻寸前であり借入金でようやく動いていた状況でした。それらが集まって維新政府となっても経済基盤は脆弱であり緊急に立て直さなければ崩壊の危機にあったわけです。

 

版籍奉還、廃藩置県と言う荒療治もほとんどの大名が藩運営に絶望しておりそのためにスムーズに進みました。

また商人からの借入金もほとんどを踏み倒すということを行い、その結果多くの商人が没落してしまいましたが、それも考慮せずに実施しました。

さらに手を付けたというのが武士に対する家禄の削減、そして解消への方向でした。

 

まずは削減という方向で、それも禄高により段階の差はありますが、ひどいものでは9割削減などと言うことをやったようです。

さらに武士に農業をやらせようとして「帰農法」なる法律を作りましたが、まともな農地はすべてそれまでの農民に占有されており、武士には荒れ地を開墾させるしかありませんでした。ほとんどのところで失敗してしまいました。

また、家禄を債権化して渡してしまいあとは勝手に起業しろと言うことも行われ、慣れない「士族商法」で失敗してしまったり、中には一気に入った債権をすべて売ってしまい一時に使い果たしてしまったという者も居たようです。

 

最終的には明治9年に禄制の廃止ということを施行し武士には金禄公債というものを渡して終わりということになりました。

上級士族は多くの金禄を得て余裕のある暮らしをできるものもありましたが、中下層の士族はそれだけで生活のできるはずもなく収入を得るために大変な苦労をすることになりました。

それでもそれを受け入れたということは、家禄というものが既得権であるとは武士の側も考えていなかったということもあるようです。あくまでも藩の中で使えていればこその報酬であり、それが無くなった以上は家禄も無くなるということはほとんど共通の認識であったようです。

また家禄廃止の目的というものも国の財政を立て直し「富国強兵」に向かうという方針であることは政府も広言しており、それに心情的に共感するというのが「武士」の道徳であったことも強い要因でした。国のためなら私の収入などをとやかく言わないというのが武士の嗜みであったということが強かったのでしょう。

 

なお、各地の士族反乱を秩禄処分への不平からとする見方は専門家の間にもありますが、様々な史料を見てもこのようなことを問題化する記述はほとんど見られず、内心はともかく表面的には一切触れていないようです。

その反抗の時期も秩禄処分以前からであることが多く、維新政府の諸政策に対する抗議であったというのが主要因であるということです。

 

秩禄処分の断行と言うことが無ければ明治維新の改革のスムーズな離陸というものは困難だったでしょう。ほとんどの士族はそれを不平も言わずに受け入れてしまいました。

あまり物わかりの良すぎるのも気の毒ですが、そのおかげで近代国家としての発進が可能となったのでしょう。

人夫や門番として働きながらも誇りを持って生きた士族の老人が明治後期には多かったそうです。「没落士族」と言う言葉も侮蔑の意味よりはある種の敬意をもって使われていたそうです。